「障害者と結婚するなんて、大変そう…」
私と結婚する時、夫は多くの人にこう言われました。一生介護をする生活になるんだね、と。
私は生まれつき、骨の折れやすい障害があり、車いすで生活しています。身長は100㎝しかなく、できないことも多いので、福祉制度を利用しており、1日10時間ヘルパーさんが来てくれます。
結婚をするとき、夫の両親、親戚から大反対を受けました。障害のある私と結婚することで、彼は苦労が絶えず、不幸になってしまうと思ったようです。結婚式には彼の親族は誰も参列しませんでした。
しかしそれ以上に私がショックだったのは、友だちや同僚の反応。結婚を反対されていると相談すると、「親が心配して反対するのは当たり前」「親の悪口は言ったらだめだよ」と言う人もいたのです。
当時の私は小学校の英語指導員をしていて、サポートを受けながら仕事も、家事もこなしていました。こうした私の生活を知っている人でも、結婚となると「反対されるのは無理もない」と思ってしまうことが、本当に悲しかったです。どんなに頑張っても、何かあると「障害があるから仕方ないよね」と言われてしまうのです。
「障害者の介護は家族がするもの」という決めつけ
私は自分の介護をしてもらうために、パートナーと結婚するわけではないし、自分の生活を助けてもらうために、子どもが欲しいわけではありませんでした。
でも結婚というプロセスを経て「障害者の介護は家族がするもの」と思っている人が多いことに改めて気づき、ショックでした。
「絶対にそうなりたくない」と思った私は、家族が私を介護している姿をまわりに見せないように、と強く心がけるようになり、自分1人でできないことはヘルパーさんに頼ると決めました。
子育てでも同じようなことに直面します。
もともと私は子どもが大好きで、甥っ子や姪っ子を預かったり、フリースクールや小学校で働いたり、海外に留学して学童保育でボランティアをしたこともあります。いろいろな子どもたちと関わる中で、サポートがあれば、私も育児ができると思っていました。でも周囲は違ったのです。
産後、ソーシャルワーカーと看護師がいる話し合いの場では「子どもが熱を出したらどうするの?」「けがをしたらどうするの?」と質問攻め。専門家にまで「私に育児はできないと決めつけられている」と感じました。
子育ては誰だって大変だし、何か起こることは誰にだってあるのに。「ヘルパーさんがいるから大丈夫です」と私が言っても「24時間はいないでしょう?」と言われ、とにかく危ないと頭ごなしに言われるばかり。
その場が収まったのは、夫が「何かあったら僕が会社から帰ってきます」と言った時でした。
いつの間にか、夫と向き合わなくなっていた
「障害者の介護は、家族がすべき」「子育ては家庭の中で負担すべき」
こうした偏見にあらがうことに必死になっていた私は、さらに致命的な失敗をしてしまいます。
あまりに周囲の目を気にすることで、夫ときちんと向き合わなくなっていったのです。
我が家では子育ては私とヘルパーさんたちでするのが普通になっていました。夫が疲れていたり、病気になったりすると、まわりから「障害者と結婚して大変だよね、かわいそう」と言われてしまうと思ったからです。
10人近くのへルパーさんに交代交代で来てもらい、私の身の回りのことや子育てを手伝ってもらう生活の中で、気づけば私はヘルパーさんの予定調整ばかり…。
例えば子どもが熱を出したり、急な予定が入った時。あるいは、夫の仕事の変更の時も、夫と話し合うのではなく、まずはヘルパーさんの調整をやっていました。
夫婦のすれ違いはどんどん大きくなりました。夫がどうしたいのか、どうやったら育児や家事をできるのか、それを話し合うことをしてこなかったのです。
そしてこの状況は、子どもが一人から二人になったことで、限界を迎えました。
今まで夫に頼ったり、話し合いをしてこなかったのに、「夫はどうしてこの大変さに気づいてくれないんだろう」と私がイライラするようになってしまったのです。
その感情は、彼に頼りすぎることで「障害者は大変」「家族が介護するもの」と周囲にまた言われてしまうのではないか、という不安と挟み撃ちのように迫ってきました。
どんどんつらくなるのに、何が、どうつらいのかわからず混乱したまま。変わりたいのに、何を変えていけばいいのかわかりません。
夫と向き合いたい、パートナーシップも見直したい。もっと子育てでも協力しあいたい。
そう思いながらも、それって介護になってしまうのだろうか、と思い詰めてしまいました。
私を救ってくれたもの。それは本からの知識だった。
八方塞がりの日々の中で、私を救ってくれたもの。それは知識を得ることでした。
子育てが少しだけ落ち着き、自分の時間を持てるようになって私は仕事を再開しました。同時に、以前から興味を持っていたジェンダーや包括的性教育の勉強もはじめました。
清田隆之さんの『よかれと思ってやったのに 男たちの「失敗学」入門』を読んだ時には、夫と私にあてはまる、いや、私たちのことを言っているのではないか?と思ってしまう事例にたくさん出会い、驚きました。
「自分で調べることをせずに、妻になんでも聞いてくる夫」「謝る時に言い訳をしがちになる男性」「男性が連絡や報告を怠りがちで、さみしさを感じる女性」…。
夫が悪いというよりもこれは男性によくみられるパターンだと考えられるようになり、彼を責め立てるよりも冷静にその行動を見ることができるようになりました。時には「でた!男性によくあるパターン」と笑うことができるようになったほど。
私が悲しくなったりイライラした時も、これは陥りがちなパターンで、そう思ってしまう自分を責めなくてもいい、と思えるようになりました。
自分たちの感情や行動の背景に社会構造の問題やジェンダーギャップがあると知ることで、お互いを責めすぎずに、解決や対話方法について考えられるようになりました。
また川上未映子さんの『きみは赤ちゃん』では、どんなにいいパートナーシップを築いていても、産前産後、夫婦の危機に陥ることは、よくあることだと知ったし、山崎ナオコーラさんの『母ではなくて親になる』では、ベビーグッズ選び一つをとっても、夫と話し合いをしてこなかった自分を顧みることができました。
これらの情報が私を変えてくれ、救ってくれたのです。
当時の私は、仕事が忙しくて不機嫌になりがちな夫の態度がとても怖く、つらく感じていました。関係性がいびつになっていると気づき、勇気を出して、泣きながら夫と話し合いました。(詳細はこちらのコラムをご覧ください)
「〇〇なんだから」と縛られずに済む社会を目指したい。
私は障害がありますが、そうではなくても、「〇〇なんだから仕方ない」と、周囲や社会からの決めつけや偏見に苦しんでいる人はいると思います。
「妻なんだから」「母親なんだから」「障害者と結婚したんだから」…。
数々の「なんだから」に対して、それを受け止めるのは当たり前、これくらい自分が我慢したらいいんだと、と感じている人は多いのではないでしょうか。パートナーや周りの人につらいと話しても「俺だって大変なんだから仕方ない」「母親なんだから頑張るしかない」そう言われて、さらに傷つく人もいるでしょう。
でも、どうか我慢しないで欲しいと伝えたいです。
私がそうだったように、知識をつけて自分の問題を整理することは自分の助けや力になります。同時に、もちろん勉強しなくても、いつでもだれでも、つらい、いやだ、何かがおかしい、変わりたい、と言ってもいいのです。
変わりたいと思うことは、わがままではなく、自分にとっても、同じ場所で生きていく誰かにとっても、そして未来を担う若い人にとっても、大切なこと。
だからこそ、つらい気持ちを安心して吐き出せる場所を、増やしていきたいです。
自分の痛みに気づくこともできず、ただただ苦しい毎日を送っている人も含めて、今まで言われて苦しかったことや、求められていた「らしさ」に縛られずに、変えていくことができる社会にしたい。そのための情報環境や制度、人のつながりができていくことを願います。微力ながら私にできることもしていきたいです。
(文:伊是名夏子 @izenanatsuko 編集:南 麻理江 @scmariesc /ハフポスト日本版)