森林文化協会が発行している月刊「グリーン・パワー」は森林を軸に自然環境や生活文化の話題を幅広く発信しています。4月号の「時評」では、世界遺産の奈良・春日山原始林で深刻になっているシカの食害への対策について、京都大学名誉教授の森本幸裕さんが論じています。
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懸案であった国の天然記念物「奈良のシカ」の頭数管理。捕獲数は120頭という上限値に遠く及ばない16頭であったと、奈良県が今年2月の県自然環境保全審議会の鳥獣部会で報告した。県が奈良公園を中心とした主要生息地を保護すべき区域、外側の山間部などを管理区域とし、計画的な捕獲も行う方向に舵を切ることを決めたのは昨年3月だった。
限定的とはいえ、県自然環境保全審議会が信仰対象の「神鹿」でもあるシカの個体数調整に踏み切ったことは画期的だ。しかし、そのシカの主たる生息地となっている、特別天然記念物で世界遺産の「春日山原始林」の生態系に、深刻な異変が発生している課題の解決は見通せていない。
シカ捕獲で合意が可能であった理由は深刻な農林業被害だ。しかし、地域固有性の高い照葉樹林である春日山原始林の不可逆的な変化や、そこにおける種の絶滅は、はるかに深刻ではないだろうか。でも、貨幣価値換算が困難なためか、致命的変化であっても進行がゆっくりで気づきにくい「ゆでガエル」現象であるためか、有効な対応は進んでいない。
『世界遺産をシカが喰(く)う』という、週刊誌の見出しとも思える書籍が出版されたのは10年余り前。副題は「シカと森の生態学」で、日本の森に起こっている異変を取り上げた憂世の書だ。熊野古道などの世界遺産を擁する紀伊山地の鬱蒼(うっそう)としたトウヒ原生林が、枯木とササの状態となった事例など、人工林化を免れた天然林や里山林に迫る危機とシカ個体数管理の理論等が提起された。
この書で奈良のシカを紹介した前迫ゆりさん(大阪産業大学教授)は、2013年には『世界遺産春日山原始林―照葉樹林とシカをめぐる生態と文化』を編集され、長年にわたりシカが高密度状態となっている生態系の病理を浮き彫りにされている。春日山原始林は台風被害や秀吉による植樹の記録はあるものの、1000年以上禁伐の国内有数の照葉樹林だが、1990年あたりを境に森の変質が顕在化したという。
シカは、ドングリはもちろん下層植生も食べ尽くして、冬には落ち葉も食べる。当然、土壌侵食が大きくなり、昆虫相や水質も大きく変わってくる。かつて水生昆虫を餌とするミソゴイやアカショウビンなど豊かな自然を象徴する鳥もいたが、カラスやヒヨドリという都市鳥に取って代わられた。そして厄介なのが、カシ類の大木が枯れるナラ枯れがここでも深刻化していることだ。大木が枯れた後、生えてくる次世代の樹種は、シカの食べないナギとナンキンハゼとなる。もとは神事のために導入された国内外来種ナギと公園景観のために植栽された外来種ナンキンハゼは、それはそれで有意義であったはずが、シカの食害が顕著なために侵略的な外来種となってしまうのである。
春日山原始林の継承のためには、希少種保護と倒木跡地再生のために防鹿柵を設ける戦略とともに、森の長期的な目標像を踏まえたシカの頭数管理や大規模防鹿柵設置の議論を避けて通れない。