かつてインターネットは、自由な世界だった。当初は、一部の新しもの好きだけがパソコンを買い、インターネットに接続していた。ネットの世界は「新天地」であり、「開拓地」だった。現実世界に不満を抱く人々は、いつも、「ここではないどこか」を夢見るものだが、インターネットも当初はそのような場所だったと言ってもいいだろう。
そこには「自由」があったが、それは「悪」と表裏一体だった。アメリカの開拓時代における西部がそうであったように、無法者が好き勝手をする弱肉強食の世界だった。
やがて「文明化」されると、その無法者たちは自分たちの生き方を否定され、息苦しくなり、かつてあった「自由」が恋しくなる。
現在のネットで多く目につく、「表現の自由」を謳いながら「アンチ・ポリコレ」「アンチ・フェミニズム」を主張する人々の態度は、こうしたネットの成熟と無関係ではない。
しかし、ここで一つの問いを立てたい。
ネットの「文化」が成熟し、文明化していくことは、「自由」の獲得や担保とトレードオフなのだろうか。ネット空間が自由な場所でありながら、差別や暴力を許さず、文明として成立するために、いま考えるべきことは何か。
本来は自由であるはずのアートが、公共性を盾に「検閲もどき」の介入を受けるといった事案も起きる昨今、ネット時代の「自由」と「公共性」の関係について、考えてみたい。
すぐに”炎上”するアート。だったら「見せない作品」を見せれば良い。
このようなネットと社会のありように、反旗を翻しつつ、高次の解決を図るアーティストの展示が行われた。卯城竜太(Chim↑Pom)、キュンチョメ、松田修、涌井智仁が主催する「ダークアンデパンダン」と題された展示である。
「アンデパンダン」というのは、無審査の展覧会という意味のフランス語だが、「ダーク」という言葉遣いは、「インテレクチュアル・ダーク・ウェブ」から直接的なインスパイアを受けている。「インテレクチュアル・ダーク・ウェブ」とは、フェミニズムやリベラリズムに対して、「世界はそんなに”お花畑”な世界ではなく、もっと残酷だ」ということを科学的なエビデンスに基づいて主張する一派である。
芸術家たちがこの言葉を用いたのは、彼らもまた、「真理」を追究して作った作品を世の中に公開できなくなっている、という実感をもつからだろう。
「ダークアンデパンダン」は、オンラインとリアルにまたがっている。オンラインでは、作家が「ここまでは出せる」と判断する範囲までを”チラ見せ”する。リアル空間での展示は、主催者が選んだ人だけに鑑賞者を限定し、それ以外には公開しない、という方法を選んだ。「わざと見せない」ことを見せていると言っても良い。
筆者は幸運にも展示を観る機会を得たが、確かに刺激的で、面白い作品が多く、充実していた。ただ、本音を言うと、「ネットや美術館に出せば炎上するかもな」と思うものの、「さすがにこれは」と思った作品は一つだけだった。
筆者の感覚がおかしいのかもしれないが、「この程度の(面白い)作品も、もはや表に出せない状態になっているのでは、観客にとっても世界にとっても損失じゃないか」と思ったことは正直に言っておく。
ネット時代は「エクストリームな個」=岡本太郎を拒絶する?
この展示が意味するのは、ネットを中心に展開される現状の「公共性」への異議申し立てである。
「ダークアンデパンダン」の背景について、卯城竜太・松田修が『公の時代』(朝日出版社)の中で語っていることを参照し、筆者なりにまとめてみよう。
あいちトリエンナーレでの「表現の不自由展・その後」(2019)や、東京都現代美術館の「キセイノセイキ」展(2016)が露にさせたように、現在では公権力からの「検閲もどき」が露骨に起こっている。
権威や権力者のような「上から」だけでなく、「下から」(市民から)の抑圧・弾圧も激しさを増している。炎上やクレームの形で顕在化するそれらには、右左や思想的な立場は関係ない。右も左も、ともに自分たちが気に入らないと思う表現を、公的な空間から見えなくさせようとしている点においては、等価だ。その良し悪しの評価は一旦措くが、とにかくそれが激化している時代だという分析は正しいだろう。
卯城と松田が言うには、それは社会全体の大きな変化の表れである。戦後の日本は、民主主義を前提として「エクストリームな個」の追求を是とし、人々もそれを認める空気があった。それを代表するのが、岡本太郎である。「芸術は爆発だ!」と言っていた、奇矯なおじさん(を演じていた)岡本は、確かにお茶の間に受け入れられたし、1970年の大阪万博では「太陽の塔」を作り、国家イベントにも参加している。
だが、現在はどうだろうか。アーティストは社会に役に立つ芸術を作ることが多い。トリエンナーレなどの地域芸術祭しかり、SNSで支持される表現の切り口しかり、「エクストリームな個」よりも、「公共性」が重視される。
このような時代を、二人は「公の時代」と名付ける。自分を消して他人や権力に合わせる「滅私奉公」人ばかりが増えて、「個」それ自体の価値が低下していく。それはやがて、「個」そのものが消失した全体主義的なディストピアが訪れることを予感させると二人は考えている。
多様性を謳いながら多くを排除する現代。自由を求めれば、「閉じて」ゆく…
二人が怒りを覚えているのは、現在の欺瞞的な「公」である。例えば「多様性」。言葉で謳われていても、そのイメージの中には多くの排除があるのではないのか。
これを二人は言葉遊びで言っているのではなく、生きてきた経歴と実存を賭けて言っている。本人たちが書籍の中で繰り返し強調している言い方をそのまま使うが、卯城は中卒であり、松田は尼崎に生まれ育ち、二度ほど鑑別所に収監され、その後東京芸術大学の大学院に入学している。
その人生で親しくし、出会ってきた人々、観てきた世界が、このような「公」の中に居場所がなく、いわゆる「多様性」に含まれていないことに、二人は憤っているのだ。
二人はここで決定的に先ほどの「インテレクチュアル・ダーク・ウェブ」と袂をわかつ。
彼らが「公」的になっていく世の中に怒り、「自由」や「個」を求める気持ちというのは、自由に差別的発言をしたいとか、とにかくフェミニズムやポリコレに反発したいという反動的な人々の動機とは異なっている。むしろ、不可視化され、排除されている人たちの側に立った、現在の「公」への異議申し立てなのだ。
だから、彼らは「閉じる」。
「公」に開けば誰かを傷つける可能性がある。だけれども、芸術家として、「エクストリームな個」を追求し、芸術的な「真理」を探究し、共有する使命や責務も担っている。それらを両立させるためには、もはや「公にしない」ことがスマートな解決策なのである。彼らはこの展示で、敢えて「見せないようにしていること」を「見せ」た。
これから、あるいは既に多くの領域で、多くの人々が同様の「撤退」を行っているだろう。言説も含めて、様々な内容が公的な空間から既に撤退している、あるいはしていく可能性がある。
現代社会の「公共性」の欺瞞を見過ごさず、「撤退」という行動をとる人々を、個人的には評価しつつ、最後にこのことの損失を、2つの観点から考えることで、危機感を読者と共有したい。
芸術は、社会の「外野」であるべきか?
まずは、こうした損失によって、民主主義が健全に機能しづらくなるという点が挙げられる。
民主主義の利点は、様々な事柄が自由に提起されることを通じて、この社会にある様々な問題や状況が表に出てきて、共有され、メンテナンスされていくということにある。それに失敗し、惨状を放置すると、暴動などに繋がってしまうが、表現や報道、集会の自由などによってそうなる前に対処できるのが、民主主義の良いところだ。だから「表現の自由」は不可欠なのである。
しかし、その民主主義の基礎となる「公共圏」のテーブルそれ自体が“暗黙の排除”を行ってしまうと、その「問題」なり「心情」なりが、闇に隠れていってしまう可能性がある。それは民主主義にとって大きな損失ではないか。
もうひとつ、精神分析的な観点からこの損失を述べる。
フロイトは、著書「文化への不満」で、後のナチス・ドイツに繋がっていくヨーロッパの状況を分析し、人々は「文化=啓蒙=教養」に反発し「死の欲動=攻撃衝動」を高める生き物だと述べている。
つまり、他者と繋がり、共同体を維持するために必要な「文化」や「正義」——ポリコレなどもここに含まれる——は時に、個人の衝動と相反し、人々は「攻撃衝動」を覚えてしまうというのだ。この衝動を健康的に解消してくれる数少ない手段が、学問や芸術などを捌け口として「昇華」させることだ。
だとするならば、「芸術」の領域は、多少、社会の価値観と”ズレて”いる必要があるともいえるのではないか。
芸術作品があまりに社会の価値観に寄り添いすぎると、その「昇華」の機能を人々が心理的に用いることができなくなるのではないかと危惧されるのだ。そして個々人は衝動を抑えきれず、文化の存在を恨んでしまう。それが今、ネットの一部ユーザーの中で起きていることではないか。
フロイトは、「昇華」の作用は、作った人だけではなく、その観客にも効果を及ぼすという。観客は、作品を通じて代理的な昇華のカタルシスを味わうことができるし、抑圧された衝動を昇華する道筋を学習することもできるのだ。
ゆえに、観客から「見えない場所」で芸術が展開されることは、社会全体にとって、衝動を抑圧された時に、それを昇華する技法を習得する機会を減らすという大きな損失があると筆者は考える。
私たちは、「芸術」の持つ「聖域」性――社会の「外部」であるという位置づけ――が歴史的に必要とされてきた理由を、もう一度考え直した方がいい。もちろん、そこでは様々に邪悪な振る舞いも起こってきた。それは克服されるべきだ。しかし、あまりにも現在の多数派の考える社会のための芸術ばかりになりすぎると、かえって社会のためにならないという逆説も、私たちは考える必要があるのだ。
(文:藤田 直哉/編集:南 麻理江)