メディアが新型コロナウイルス報道一色になっているこんな時期に、空気も読まずにAIの話をしようと思う。もっと言えば、未来の話をしたいのだ。恐怖と不安により、近視眼的に生き残ることばかりを考えがちなときだからこそ、それを乗り越えた先に思いを馳せる意味があると思う。AIの進化は、人の「死生観」をどう変えるのか?
AI美空ひばりは「死者への冒涜」か?
2019年末のNHK紅白歌合戦に、AI美空ひばりが登場したことは記憶に新しいだろう。1989年に亡くなった「歌謡界の女王」を、最先端の技術で蘇らせ、「新曲」を披露させた。生前の美空ひばりが歌っていない歌や、言っていないセリフを、AI美空ひばりが歌い、喋ったのだ。
それを実現させた技術は、ヤマハの「VOCALOID:AI」と呼ばれるものである。そこでは、深層学習技術(ディープラーニング)という技術が用いられている。ディープラーニングとは、シンプルに言うと、過去の美空ひばりの歌や映像をたくさん機械に聞かせたり見せたりして、それに高度な統計処理をして、「美空ひばりらしさ」の要素を抽出し、再現させるというものである。AIと言いつつも、意識や自我を持っているわけではない。本質は「統計」である。
この「AI美空ひばり」を巡って、「死者への冒瀆だ」という意見も出た。故人の遺志に反し、言ってないことを言ったことにされたり、歌ってない曲を歌ったことにするわけであるから、そのような意見が出るのは当然だ。
懸念すべきは、故人が「改変」されること?
昨今では「ディープフェイク」という技術もあり、政治家などが言っていないことをさも言っているように見せる動画なども作れるし、かなり出回っている。こうして過去の政治家や偉人などが次々とAIで再現され、現在に都合のいい発言をさせられる可能性については、想像に難くない。
一応、現段階では、紅白歌合戦を見て感想を述べている多くの人は、「AI美空ひばり」と「美空ひばり」の区別は付いているだろう。しかし、だ。オリジナルの美空ひばりの記憶が、新しいイメージに無意識に侵食されていくことも、容易に想像がつくのではあるまいか。
それは確かに、死者や、過去に対する冒瀆と言えるかもしれない。現在の自分たちに都合が良いように、過去や死者を改変するということなのだから。
人間はいつでも、死者を蘇らせてきた。
とはいえ、少し引いた目で考えると、亡くなった人の一部をテクノロジーで残すこと自体は人類がずっと行ってきたことだ。今では当たり前のように「遺影」があるが、これは写真が発明されるまでは存在しないものだった。あるいは故人の考えが残されたものとして、「書物」がある。既に死んで存在しない人の思考や感覚の一部を、書物を私たちが読む度に一部蘇えらせることができるのが、「書物」である。これも、文字や紙、印刷技術が発明されたことによって実現したものである。
もちろん、AI美空ひばりは、過去のテクノロジーによる「死者の蘇り」と段違いのリアルさがある。そうした要素も人を不安にさせているのだろう。
とはいえ、歴史上ずっとテクノロジーの発展に伴って、死者はいつでも蘇らされてきた。死者があたかもこの世界に生き続けるかのように近づけようとすることは——AI時代であれば、それは故人が生きていた頃の「記録」を超えた、生前はしなかった新しいアクションをも含む——、人類の進歩の歴史の中で、必然的な方向性であると考えることもできる。
つまり、議論すべきポイントは、AI美空ひばりが「アリ」か「ナシ」か、ではなく、今後のテクノロジーの進展によって我々の「死生観」はどう変わるのか、その変化の良し悪しであろう。
AI時代の、生者と「死者」との関係は?
今後、私たちは生前にたくさんのデータを残して死ぬだろう。TwitterやFacebookに「言葉」を残しているし、Instagramには写真を、YouTubeには動画を残している。AIのディープラーニングが安価で手軽になれば、それらの膨大な「ライフログ」によって遺族が死者をAI化することは十分にありうる(既にそのようなサービスを開発している会社はいくつもある)。
仏壇を拝んだときに、遺影ではなくデジタルの画面の中で、動いて会話できる存在になることは十分にありうる。こうなると、「死」の重みが変わる。生者にとって、死が「二度と会えない」「決定的」な瞬間であると言う感覚は薄まるだろう。死んだ後もAIによって、表情も思考もあるように見える存在と対話ができるからだ。
子どもの成長とAIの深層学習が「同じ」に見える。
「死」の意味が変われば、「生」の重みも変わる。ディープラーニングとは、人間の脳を模した数式モデル(ニューラルネットワーク)に、たくさん情報を与えてたくさん統計処理させて何かを「理解」させるものだ。果たして人間の脳も、それとどれだけ違うというのだろうか。
ぼくはいま子育てをしていて、一歳半になろうとする息子がいるが、彼が学習していく過程を見ていると、ディープラーニングと近いのではないかと思うことがある。たとえば「ワンワン」という言葉を覚える。最初は、動物全般に「ワンワン」と言っているが、そのうちに「ニャンニャン」や「ウサギ」と区別が付いてくる。ぼくがいちいち、「犬というのはこういうもので、猫というものはこういうもので、その違いは……」と説明したわけではない。歩いている犬や、絵本などで繰り返し「犬」の絵柄を見て、それに対して親などが「ワンワン」と教えるのを繰り返すことによって、彼は「ワンワン」という概念を手に入れている。
「ワンワン」には多くの種類がある。ゴールデンレトリバー、チワワ、秋田犬、土佐犬など。様々な形、色、大きさのこれらを共通して括る「犬」という概念を、この子は(というか我々みなは)どうやって手に入れているのだろうか? そしてそれが「猫」「キツネ」などと異なるという差異を、どうやって認識しているのだろう? 多分、ものすごくたくさんの図像を繰り返し見て、「これはワンワン」「これはニャンニャン」などと聞いているうちに、概念の特徴が抽出されていくのだろう。このような、人間の概念・認識の獲得の仕方と、機械による深層学習は、とてもよく似ているように思う(AIの方が人間に似せたのだから当然だが)。
テクノロジーの進化は「死生観」をも変える。
そうすると、人間の知能やひょっとすると精神も、実は神秘的なものでもなんでもなく、機械による統計処理のようなものが高度化したものにすぎないのでは、という考えに移行するのではないか。
中世のヨーロッパでは、人間は神の一部であると考えられたりしていたし、日本でもアニミズム的な感覚が信仰されていた。しかし今後はそのような自己認識ではなく、むしろもっと殺風景で計数的な、ドライな人間観・生命観に移行していくことが容易に推測される。
テクノロジーへの理解が、生命への認知を変えていくのだ。
実は産業革命が起こった蒸気機関の時代には、人間は蒸気機関のようなものだと考えられた。デカルトも、人間の身体や動物が「機械」であると考えた一人だ。
こうして、科学的な知見や、生活に実装されるテクノロジーの影響を受けて、変化してきた人間の「死生観」。おそらく今後の日本では、死者と生者とAIとキャラクターが漠然と混ざり合った死生観が生まれる、とぼくは考えている。
昨今の若い世代を見ていると、アニメのキャラクターや、バーチャルYouTuberなどにも「生命感」「存在感」を覚えているようだ。こうした大衆的な想像力の中で、境界が曖昧な死生観が、自覚されることもなく発展していくだろう。それはサブカルチャーの中に現れ、世代が後退していくに連れて、徐々に「サブ」ではないカルチャーにまで影響を及ぼしていくことが想像される。
そのとき、何が起きるだろうか。
生と死への「謙虚さ」を忘れてはなるまい
ここまで述べてきたような「死生観」の変化は免れ得ない未来だろう。
とはいえ、一方で個人的には、同時代に隆盛したテクノロジーによる理解の枠組みを投影するだけだと、生命や知性を「過小評価」することにもなるのではないか、と危惧する。
「AI美空ひばりを自然に受け入れる価値観に変わっていくよね」、で終わらせるのはまずい。
なぜなら宇宙が生まれ、どこかの段階で地球が生まれ、そこにあった無機物がいつのまにか生命になり、増殖を繰り返すようになり、単純な生物だったものが、長い年月でここまで多様化、複雑化した理由について、それがなんのためなのか、私たちは未だに理解していないからだ。
AIがもっと発展すれば、そのような創造や進化の謎にまで手が届く日がいつか来るのかもしれない。AIによって人間が自身を理解する助けになってくれる点には興奮させられる。
しかし、だ。
死も生も、たかが現代に流行しているパラダイムで理解し尽くせるほどに小さいものではないだろう。死生観の変化が必然だとしても、そのことへの謙虚さは、忘れない方がいいと思う。
(文:藤田直哉 @naoya_fujita / 編集:南 麻理江 @scmariesc)