映画『ジョーカー』が好評だ。
DCコミックス『バットマン』に登場する宿敵・ジョーカーの誕生を描く本作。あれやこれやと映画評も出ていたり、noteやTwitterでも感想を見かける。
この記事では、『ジョーカー』を「ズレの映画」と位置付けて、壊れゆく民主主義とその中で翻弄される現代人を徹底的に皮肉った喜劇であり悲劇、として紹介していきたい。
ブームが落ち着いた今、改めて『ジョーカー』が投げかける問いと向き合うきっかになれば幸いだ。
(編集部注:本稿は一部ネタバレを含みます)
「大義」と「真実」のズレ
ギャグが面白いのは、観客の期待や予測を巧みにズラすからだ。
本作のメガホンを取ったのは『ハングオーバー!』シリーズなどで知られるトッド・フィリップス監督。ズラしによるおかしみを作り出す、コメディの達人である。
『ジョーカー』の世界では、色々な反乱が起こる。政治家トーマス・ウェインや、保守的エリートに対する反乱、福祉を切り捨てる新自由主義的政策への反乱。これらはドナルド・トランプ氏を支持したとも言われている「ホワイトトラッシュ」(白人のゴミ)と呼ばれてきた人々の反乱のようにも見える。
「反乱」というのは必然的に「大義」を伴うもので、映画の中で暴動を起こしている者たちはみな大義を掲げているのだが、ここにこの映画の第一の「ズレ」が浮かび上がる。
暴動のきっかけを生み、アイコンとして担ぎ上げられるアーサー(ジョーカー)だが、彼が実際にしたことを考えて見ると、緊張すると笑ってしまう持病の発作によるある種の暴発だ。
電車の中でナンパに失敗した男たちの前で発作を起こしてしまい、彼らにいじめられてしまうアーサー。その時偶然、拳銃が彼の手の中にあった。自衛なのか怒りなのか、彼は撃ち殺してしまう。(銃を持っていたのも彼の意思ともいえない)
しかし男たちがエリートビジネスマンだったことにより、意図が「誤解」され、「大義」がでっちあげられてしまうのだ。そしてアーサーは、その「大義」を象徴するアイコンへと成り上がっていく。こうした「大義」と「真実」のズレが、笑いを生むのと同時に、悲劇を生む。これがこの映画の面白さだ。
「こうなるだろう、という思い込み」と「真実」のズレ
他にもたくさんのズレが散りばめられている。
アーサーは、自分は本当はトーマス・ウェインの息子であるという貴種流離譚のような思い込みを持っている。母親がトーマス・ウェインと愛人関係にあったと信じて、手紙を出し続けているからだ。実際、映画は最初、権力と地位のあるトーマスが、スキャンダルをもみ消し、アーサーと母親を不遇な地位に追いやったかのように描き、観客が同情するようになっている。
権力勾配があると、人々は自然と弱い方に感情移入し、強い方が間違っていると感じてしまうのだ。
だが後に、母親は「統合失調症」と「自己愛性人格障害」と診断されていたことが分かる。記録の上では彼は養子であり、もともとは捨て子であり、トーマス・ウェインが実の父親であるというのはありえないとわかる。観客が感じた「こうであるはずだ」という予期に対するズラしが仕掛けられている。
ズレは他にもある。アーサーに感情移入しながら物語を追いかけていく観客は、「トーマス・ウェインが自分を見捨てて助けてくれない」とアーサーが疎外感と迫害感を募らせていくはずだと思う。彼がトーマスの自宅に赴き、息子のブルース・ウェインに対面した時、「息子である自分が手に入れられるはずの境遇」を全部手にしている彼を、殺そうとするのではないかとヒヤヒヤするだろう。
しかし、むしろアーサーは親しげにブルースを愉しませてみせる。
バットマン(ブルース・ウェイン)とジョーカーの宿命の敵対関係から観客が思う「こうなるだろう」という予断や偏見との「ズレ」がここにある。
観客はこの映画の間中、こうした自分自身の思い込みや、勝手な「因果関係」「物語化」の作用を反省させられ、振り回され続ける。真実は安易な想像と違う、という語り方が徹底されていると言っていい。
第三者が恨みを「勝手に引き受ける」というズレ
観客の「思い込み」をあざ笑うかのような「ズレ」の演出は、まだまだある。
「主体」と「行動」のズレだ。
物語は、アーサーが持つはずだと(観客に)期待されたが実際は持たなかった感情を、何故か無関係の人たちが持ち、代行するかのように何かを起こしてしまう、という構造になっているのだ。
先に述べた電車での射殺事件が――殺されたのは偶然、ウェイン・エンタープライズの社員だった――、その後に続く大きな暴動のきっかけとなるわけだが、アーサー自身は、トーマス・ウェインにさほどの恨みがあるわけでも、大企業や保守政治家を批判する思想があるわけでもない。
しかしこの「誤解」によって起きた暴動の中で、暴徒の一人がトーマス・ウェインと妻を射殺してしまう。(大義のために殺したのか、単なる金目的の強盗だったのか、はっきりとはわからない)
こうして、アーサーが抱いてもいいのに抱かなかった憎悪や殺意が、何故か別の人間たちに抱かれ、実行されていく。
動機が、主体を超えて、誤解されながら転移していき、社会的なうねりになっていく様を、本作は描いているのだ。
ブルース・ウェイン(バットマン)は両親が射殺されるところを見て、それがトラウマになる、というのが「バットマン」の設定だ。暴動は、アーサーが起こしたことになっているので、ブルースの潜在意識では、アーサー(ジョーカー)が宿敵になってしまう、というわけだが、もちろん、それは誤解だ。
一方で、アーサーは、確かに暴動を「美しい」と思っていた。
虐待を受けて育ち、母親のコントロール下で自分の意志を表出することすらほとんどなく生きてきた彼にとって、自分を世界に表明することで、世界が動いてくれたという手応えを感じることのできるものだったからだ。
アーサーは暴動を見て初めて、自己の尊厳を感じ、自分が生きている実感を得ることができた。彼の「主体」はここで、唯一、初めて現れるとすら言える。そういう意味でこれは、とても悲しい物語だ。
観客には、彼らの「宿命」が、誤解やズレの産物であることが分かる。悲劇とは、往々にしてそのようなものなのだ。
自分の人生は悲劇だと思っていたが喜劇だった、とアーサーは言う。(このセリフから、この映画が「悲劇/喜劇」の枠組みを参照していることがわかる)
悲劇というのは、ある社会や共同体の運命を描くフォーマットだ。主体の意識的な努力を超えて作動する、あるいは、その努力によってこそ実現してしまう巨大な宿命のようなものを描く。そこでは、世界や自分自身を理性によってコントロールできる、という人間の傲慢さが打ち砕かれる。
『ジョーカー』は、社会とはそういうものであり、そのように動いているのだと示すことで、私たちを批評している。民主主義が成熟すれば、あらゆる社会問題は解決するはずだと信じている私たちを。
フロイト理論に“寄せて”いく、患者や医者
精神分析家のフロイトはかつて、目の前で起きているヒステリー発作の背景に、過去の虐待経験や性的抑圧などの原因があることを見出した。患者本人の意識や訴えとは別の原因があると見抜いたことこそが、「無意識」を発見したフロイトの重大な功績だった。
しかしこれには、ややこしい「続き」がある。
後にフロイト流のカウンセリングを受けた患者たちは、自身の苦しみの原因として「性的虐待をされた」と言うようになるのだが、作り話であるケースが多々あったというのだ(フィル・モロン『フロイトと作られた記憶』)。
なぜこのような作り話が出てくるのか、はっきりとはわかっていない。フロイト理論がそういうストーリーを期待しているから、患者が治療者の期待に応じてそのような話をしたのだろうか。あるいは治療者の側が誘導したのだろうか。どちらにせよ、これは「症状」に対する「原因」を求める心理が作り出した「ストーリー」なのだ。
笑うべきではないところで笑ってしまう発作を起こすアーサーも、その原因は「過去の虐待」にあるとされている。
しかしこれは本当だろうか?
『ジョーカー』のエンディングは、この映画全体で語られたことが「すべて作り話かもしれない」と思わせるようなものになっている。虐待が原因で犯罪者になった、福祉を打ち切られたせいで犯罪者になった、という「分かりやすい」話に回収して理解しがちな私たちを嘲笑うような仕掛けがそこにある。
同時にこれは、暴動や民主主義の危機に対してすぐに「原因はこれだ」「あいつらのせいだ」としてしまいがちな私への嘲笑でもあるだろう。
喜劇と悲劇の二面性。『ジョーカー』からのメッセージとは
ぼくはこの映画に散りばめられた数々の「ズレ」を秀逸だと思う。
ズラしがない物語は、面白くない。予定調和で予想通りの展開にしかならない作品を観ても、刺激もないし、ドキドキもしないだろう。ズラすことが、面白み(喜劇)の源泉であり、同時に誤解(悲劇)の源泉でもある。
だからドナルド・トランプ氏のように、普通ではやらない例外的なことをする人間を観た時に人は面白く感じ、支持するのだろう。
もちろん、現実とエンターテイメントは違うので、アーサーとトランプを全て一緒くたには語れない。
しかし、あたかもエンターテイメントを楽しむように現実を楽しむ感性や世界認識が、ポストモダン以降の人々の感性の中には忍び込んでいるということについては改めて強調しておきたい。トランプ氏の予測不能で意外性のある“面白さ”は同時に、この「例外的な人」によってこれまでのルールが破壊され、社会がズタズタになっていくということと裏表だ。これは同じことの両面なのだ。
面白い映画を楽しむ気持ちと、世界を滅茶苦茶にしているものとが、同じものだったら…。
(カードゲームの)トランプにおいて、1~13の整然とした階層秩序を乱す例外的な札である「ジョーカー」をタイトルに持つ本作は、映画として秩序壊乱の魅力と陶酔と美を描くことで、最後のズレを私たちに突き付けてくるように思われる。
「民主主義の危機」を真面目に嘆き「大義」を口にする口ぶりの奥に、それを愉しんでいる無意識はないものか、と。
(文:藤田直哉/ 編集:南 麻理江)