なぜネットには感情的な対立が溢れているのか? ある「ネトウヨ」との出会いで気づいたこと。

「多様性を認め、穏やかにお互いの尊厳を尊重し合いながら議論すべきだ」と言いたいところなのだが、それができない。

あいちトリエンナーレの炎上の件を見ていて、ある一人の「ネトウヨ」との対話を思い出していた。

あいトレの騒動は、歴史修正主義や差別の問題に関わる論点を可視化させたという意味ではプラスだった。だが、同時に誰かの感情を強く掻き立て、ネット上で激しい行動に「駆り立てる」トリガー(引き金)として機能してしまったマイナス面もあった。

ぼくの過去の経験を踏まえて考えていくと、「主体の不安定さ」という難しい問いにぶつかり、途方にくれる。

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我を忘れて「メール凸」を続ける理由

これはぼくが知っている、あるネトウヨの話である。あくまでぼくの主観をもとに観察された、一人の例に過ぎない。読者にとって考えるきっかけになると思い、その経験を書く。

ネトウヨがどういう存在なのかについて、論者によって様々な見解があるが、ここでは「在日韓国人が日本を悪くしている」などといった言説を信じて、組織や個人に匿名で中傷のメールを送ってしまったり、天皇の写真が燃やされたと思ったらすぐに「電凸」「メール凸」をしてしまったりするような人を指して言う。

いわゆる保守や右翼という思想的・政治的立場がしっかりとあるわけではなく、ネットで見た意見に瞬発的に反応し、自己を制御できないままにある種、機械的かつ短絡的に何かの行動をしてしまう人とこの文章では定義する。 

ぼくが知り合ったその人は、ネットで気に食わない書き込みを見ると、我を忘れたかのように匿名掲示板で誹謗中傷したり、関係組織に匿名で嫌がらせをしていた。

ひとたびその状態になると、合理的な説得はむしろ逆効果になり、火に油を注いだ。そして誹謗中傷を書き込んだり「メール凸」をしたりして、我に返った時に、後悔したり罪の意識に怯えることもあったようだ。しかし、やめる兆しはなかった。

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なぜ、そうなってしまうのか。長いヒアリングの結果、あくまでぼく個人の意見ではあるが、「これが原因ではないだろうか」というところにいたった。

その人は、父親が右翼で、かつ、虐待を繰り返していたのである。

足場が崩壊する感覚

その人と話していて感じたのは、虐待のことを思い起こさせる「トリガー」に触れてしまうと、ネトウヨ行動に出るということだった。主体を維持できなくなるほどのトラウマが蘇ってきて圧倒されてしまうようなのだ。

父親は祝日には自宅に日の丸を掲げる。マッチョな性格でもある。子どもたちには毎日マラソンを課すなどのスパルタ教育をし、血が出るまで暴力を振るうことも日常茶飯事であったらしい。

暴力を振るったとしても、親は親である。だから子どもは、その暴力も「愛」だと思い込もうとする、と感じざるを得なかった。話を聞く限りでは、その人も、暴力を振るう父親に対して、敵意ではなく情愛の念を示していた。暴力を悪いことだとは思えず、むしろ愛の感情と暴力が結びついてしまうことで、暴力を伴わないと愛されていると感じることができないようにも見えた。

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愛憎の葛藤に直面する「トリガー」

その人の敵意の対象は「左翼」「リベラル」だった。ぼくが感じたのは、自分の父親を象徴する「右翼」に反抗している「左翼」「リベラル」を見ることで、自分の中で潜在的に押し殺してきた父への憎悪や反抗心を触発されているのではないかということ。その人からは、おそらく「左翼」「リベラル」は、処理しきれない愛憎の葛藤に直面させられる嫌なものに見えていただろう。

日常生活の中では比較的穏やかな状態であったとしても、あるトリガー(引き金)になるものを見た途端に、理性を失い、憎悪と攻撃心の塊になってしまう。その人はアイデンティティの崩壊を引き起こす「敵」に抗して、自身を保とうとしていたのだと思う。

もちろんぼくはトラウマや心理学の専門家ではない。ただ、あいちトリエンナーレでの炎上でも見られたような、ネット上での執拗な「クソリプ」などを見ると、ぼくはいつもこの実体験を思い出す。

「人と人は分かりあわないし、対立する」

理性的に対話すればわかるはずだというハーバーマス的な「熟議民主主義」の考えかたに対して、「人と人は分かりあわないし、対立する」ということを前提としそれを重視しようというのが、ラクラウ=ムフの「ラディカル・デモクラシー」という立場だ。

ラクラウ=ムフは「主体」というのは他者の存在を前にして、常に不完全で不安定であり、それゆえに「理性的な対話」など成立しないと指摘する。

この議論にぼくが説得力を感じるのは、この「ネトウヨ」との対話の経験に拠る。まさしくその人の場合は「主体」が不安定であり、アイデンティティが危機に陥りやすいからこそ、それを守ることが最優先になり、強い「情動」に駆動され、理性も失い、他者の深刻な被害のことも考えられなくなっていたようだった。

 「世界第2位」の称号をうしなって…。

現在は、理性的な判断よりもアイデンティティや情動こそが、世論形成で人々に影響するようになった時代であると分析されている。それを「アイデンティティ政治」と呼んだり、「ポスト・トゥルース」と呼んだりする。

ネトウヨだけではない。様々な立場の人が自身のアイデンティティを脅かされては相手を攻撃する、という感情的な言い合いを続けている。

ネットを見ていると、誰かが「萌え絵」などを批判すると、アニメーションのキャラクターなどに愛着を持つ人からの猛反発が来るなどといったこと起きることがある。これらは理性的な利害調整のための議論だけではなく、批判者も含めた双方の主体の不安定さを巡る非和解的な闘争でもあるだろう。どうして急速にこのような状態になったのだろうか。

一番大きいのは、ネット、及びSNSの出現だろう。

加えて、ひょっとすると「主体」が不安定になる人々が増えたのではないかとも想像されるのだ。

1980年代まで、日本は世界に冠たる経済大国、GDPは2位だった。アジアのトップランナーを自負し、科学技術や工業製品で世界に知られた国だった。これらが、ナショナル・アイデンティティとして機能していたことは、想像に難くないだろう。しかし長らく低迷する経済と少子高齢化などにより、それらを誇ることは困難になってきている。 

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さらに、バブル崩壊と1990年代以降の構造不況の中で、新自由主義的な政策に移行していったことで、会社共同体なども次々と崩壊している。リストラが断行され、非正規雇用などが拡大した。自身を支えてきたものが失われ、不安定化する。他者や世界との愛着関係が薄くなり「主体」は常に不安定さを抱えている状態になっているのではないか。

だからこそ、その人がかろうじてアイデンティティを支えるよすがにしている「文化」を攻撃した時に、対話にもならず議論の余地もない、感情的な反応が生じてしまうのではないだろうか。その文化は、オタク文化であることも、ロリコン文化であることも、伝統文化であることも、皇室であることもあるだろう。

リベラルこそが、他者を「排除」している?

ぼくは、自分自身の経験からこう思う。

理性的で論理的な対話をするには、それなりの教養や訓練が必要であるし、何よりも「主体」がそれなりに安定して健康である必要がある。討議空間への参入条件をそのように設定すれば、多くの人が排除されるだろう。それはそれで、残酷な切り捨てなのではないか。

ネットやSNSの隆盛は、理性的に議論するテクニックをもつ人だけでない、より多くの人たちが声を上げられるようになったという点では、民主主義の進歩だとも考えられる。だが、多くの人が感じているように、これは不毛であり、民主主義の危機のようにも思える。

ネットには多種多様な意見があり、そのうちの一部は気に食わないに決まっている。あるものはトリガーになる。誰のトリガーにもならないような発言しかできなければむしろ「不自由」で窮屈だ。しかし、主体が不安定な人を煽って対立を激化し、相互に尊厳を破壊しあっても、全体の幸福と尊厳がただ減るだけではないか。

しかし、さらにここで頭を抱える。

こうした状況に対して「多様性を認め、穏やかにお互いの尊厳を尊重し合いながら議論すべきだ」などと優等生的な意見を言いたいところなのだが、それができない。ぼくの知る「ネトウヨ」のその人のように、過去の経験などをきっかけに主体が不安定な人々のことを考えると、それでは解決にならないと思わざるを得ないのである。言われたぐらいでそうできるなら、解決は容易いのだが、現にそうではないのだ。

長期的には、安定した愛着と尊厳を尊重するような社会に変わっていくことが、解決になるのだとは思うが、すぐにはそうはならないし、なったとしても現に不安定な人々は救われないかもしれない。

だから、彼らのような不安定な主体を含みこんだ「対話」「議論」「民主主義」像の更新が必要であるし、そのための技術的な発明もまた必要なのではないだろうか。

表現のこれから
表現のこれから

「 #表現のこれから 」を考えます

「伝える」が、バズるに負けている。ネットが広まって20年。丁寧な意見より、大量に拡散される「バズ」が力を持ちすぎている。 

あいちトリエンナーレ2019の「電凸」も、文化庁の補助金のとりやめも、気軽なリツイートのように、あっけなく行われた。

「伝える」は誰かを傷つけ、「ヘイト」にもなり得る。どうすれば表現はより自由になるのか。

ハフポスト日本版では、「#表現のこれから」で読者の方と考えていきたいです。記事一覧はこちらです。

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