8月1日に開幕したあいちトリエンナーレ2019。一部の内容が問題となり、開催後わずか3日で「表現の不自由・その後」の展示が中止された。展示再開などの兆しも出てきていた9月26日、文化庁が採択を決めていた補助金約7800万円を全額を交付しないと発表。暗雲が立ち込めていた展示再開だが30日、芸術祭と不自由展の両実行委員会が再開する方向で合意した。
連日様々な事件が起こるので、ニュースを追いきれないぐらいである。こうしてメディアをジャックすること自体が「表現」ではないかとぼくも感じているが、であるからこそ、このチャンスを生かしてアーティスト側は「敵対者」と対話して欲しいと思っている。
そうでなければ、相変わらずリベラルな「アート好き」たちは“敗北”し続けるからである。
メディア「ジャック」に成功した、あいちトリエンナーレ
「情の時代」と題された今回のトリエンナーレは、作品そのものの展示だけではなく、(マス)メディアをジャックすることも狙っているのではないかと思われるほどの量である。誰か特定の人(だけ)が仕組んだものではなく、相乗り的に、生成し発展している大きな「作品」のようなものだともとらえられる。
メディアをジャックすることの有効性といえば、小口日出彦が『情報参謀』(講談社現代新書)で述べている自民党のメディア戦略が思い出される。2009年、民主党に負け下野してから、自民党はメディア戦略を変えた。その情報参謀となったのが小口だ。悪評であれなんであれ、メディアに取り上げてもらいやすくなる発言をすることで、「単純接触効果」(見た回数、時間が長い者に好感を抱く)によって支持者を増やす戦略である。
こうしたメディア戦略が政治――しかも政権与党――に用いられている今日において、それに対抗する側も「(感)情」を煽り、メディアをジャックし、動かすことで、メディアとメディア、プロパガンダとプロパガンダ、それが衝突する「現在」そのものを可視化させたことが、あいちトリエンナーレ2019の最大の成果なのではないかと思う。
その意味では、やはり芸術監督である津田大介が、この芸術祭を特異でユニークで、現代に行う意義のある質のものに磨き上げた者として評価されるべきであろうと思う。
騒動後の対話は、電凸してきた人々を“排除”してはいなかったか?
その前提の上で、最初の騒動以降に行われ、催されている「対話」には、いささかの不満も感じるのだ。
たとえば騒動後、加藤翼、毒山凡太朗が名古屋市の円頓寺地区に「サナトリウム」をオープンし、アーティストたちがディスカッションをした。それ以外にも、作家たちは自主的にトークの企画を立ち上げ、様々な議論を行った。トリエンナーレ参加アーティストの小田原のどかによると、多くは交通費も自腹だったらしい。加藤翼は「意見が異なる人たちの橋渡し」を意図したと言っており、この意図そのものは正しいし、アーティストたちの献身的な試みには、個人的には賞賛と感動の気持ちがある。
しかし、懸念があるのは、それが、美術ファンや、理性的な討議が可能な人にだけ閉じた立て付けになっている印象があることだ。具体的には、差別主義者を登壇者にするべきではないという議論があった。個人的な意見としては、脅迫状を送るような人や、差別主義者たち、美術を理解できない人々との「対話」こそ行うべきである。
先に言及した「表現の不自由展・その後」と、その後の「問題提起」を評価したのは、美術ファンでもなく、理性的な討議のスタイルを習得しているわけではない人々に果敢にリーチする試みだったからだ。
「敵対」はネガティヴなことではなく、民主主義の不可避の条件?
騒動のあとにアーティスト側から出てきた動きに関するぼくの問題意識は、彼らの対応が「ミクロトピア化」しているのではないか?という点だ。「ミクロトピア」とは、未来のユートピアではなく、「いまここにおける一時的な解決策」(「敵対と関係性『表象05』p78、星野太訳」のことであり、クレア・ビショップが「敵対と関係性の美学」の中で用いた概念だ。
ミクロトピア化した対応がなぜ問題かというと、内輪であらかじめ合意された価値観・考え、文化的感性を確認しあい自己慰撫的に機能するからだ。
ビショップは美術史家のロザリン・ドイチェの意見と引きながら、こう言う。
「衝突、分断、不安定性は、民主的な公共圏を破壊するものではない。むしろ、それらは公共圏の存在の条件なのだ」(同上p89)
「敵対が存在しなければ、残るのは権威によって押し付けられた合意(consensus)ばかりになってしまう――それは、討論および議論の全面的な封殺であり、民主主義とは相容れない」(p90)。
現在は「アイデンティティ政治」の時代である。合理的な討論に拠る利害調整や合意形成よりも、人々のアイデンティティや尊厳を求める争いこそが、世論を動かす。
慰安婦や天皇を扱った作品に対するネット上での過激な人々の反応は、まさにこの典型だったのではないだろうか。アイデンティティ(「日本人」)を脅かされていると感じたからこそ、理性的ではない行動が発生し、「敵対」が顕在化したのではないか。
アイデンティティに基づく「敵対」で分断し燃え上がるこの現代社会――。この問題に踏み込んだことこそが、あいちトリエンナーレ2019最大の可能性だったのだ。そして本当に議論されるべきは、そのことだったのだ。
リベラルが「敗北」する理由
繰り返しになるが、現在は「アイデンティティ政治」の時代である。
リベラルが敗北するのは、このアイデンティティ政治時代に対応できていないからである。ロールズのいう「リベラリズム」の場合も、「無知のヴェール」的な抽象的な個人が想定されており(自分の人種や性別、家柄などを一切知らない状態で社会のルールに合意しなければならないとしたら、人は基本的人権と自由が約束された社会を選ぶだろうという論)、アイデンティティを持つ主体が強くは想定されていない。討議や理性、公共圏を重視するハーバーマス的な「公共圏」を重視する討議的民主主義が後退していくように感じられるのも、この構造変動ゆえである。
全世界的に「リベラル・エスタブリッシュメント」に対する憎悪が叫ばれている。それを言うのは、「ホワイト・トラッシュ」や「チャブ」と呼ばれ蔑まされた貧困の白人層だとも言われており、彼らがドナルド・トランプやBrexitの支持者だとも言われている。
芸術はセンスエリートだけが楽しんでいる?
さて、「芸術」は、一部のセンスエリートなり文化資本が豊かな人たちのみが享受するものだと現在は批難されやすくなっている。貧乏で苦しい生活をしている人たちが、払った税金を、自分たちと違う階層の人たちのみが享受できるものに使われていると思うと、腹が立つのはよく分かる。ここでも、「リベラル・エスタブリッシュメント」が憎悪を集めるのと同じ構図があるのだ。
実際のところ、個々の作品にはある種の野蛮さがあり、作家たちもアートがそんな上品さだけではないことは良く知っている。しかし、「炎上」以後の、「対話」や「議論」は、いかにも「リベラル・エスタブリッシュメント」「討議的理性」に偏ったものに近づいてしまっていないだろうか。
文化や芸術は、そもそも恵まれたエリートのためだと思っている層、「教養」に対して強いルサンチマンを抱いている人々、議論や対話の作法を習得していない人々は、きちんと議論のテーブルに載っているだろうか? そもそも彼らが視界に入るように対話を設計しているだろうか? 構造レベルからの排除がないだろうか? そうすることは、この状況を生み出した原因を、再度反復させるだけではないか?
「権威によって押し付けられた合意(consensus)」(ビショップ)による調和を否定しつつも、抗う側にも、実は暗黙のコードや規範による「権威によって押し付けられた合意(consensus)」があるのではないか。
これでは、あいちトリエンナーレ2019の最大の可能性を、取り逃すのではないだろうか。
アートにしかできない、「対話」の形式とメディアの発明を
問題解決の鍵は、「対話」の形式とメディアのあり方の再発明にある。「議論」「対話」と言っても、「話せばわかる」的なことでもなく、予定調和な議論やタウンミーティングや学級会をしろという話でもない。アートでしかできない方法で、「敵対」「分断」を超える通路を作れ(発明せよ)、ということなのだ。
インターネットの発明によって「議論」や「公共圏」の性質は変わり、ヘイト・炎上社会をもたらした部分は大いにある。アートの力で、それに呼応しなくてはならないはずだ。
その観点から注目させられた作品は、本トリエンナーレ出品作であるドラ・ガルシアの「ROMEO」と、「炎上」後に演出家・高山明が主導し実現を目指している「アーティスト・コールセンター」だ。
「ROMEO」はパフォーマンス作品で、展覧会を見ている人が街中などで出会った優しい人の中に、仕込みの役者がいるというパフォーマンスである。「名古屋はいい人ばかりで、素敵な体験をした」と思っていると、演技だったのかもと知って懐疑と不安が起こる作品である。
公式サイトによると、「この作品のタイトルは、冷戦時代に東ドイツの諜報活動を指揮していたマルクス・ヴォルフが考案した戦略に着想を得てい」る。マルクス・ヴォルフとは、ドイツ民主共和国の諜報機関シュタージの最高責任者で、「ロミオ」とはスパイ活動名である。名前の通り、男スパイが女性に優しく接して色仕掛けで落とし、情報を得る活動をした。
この作品は、プロパガンダと情報操作に満ちた「この世界」について意識させ、懐疑させる効果がある。まさに津田が問題にしてきた「ポスト・トゥルース時代」にも当てはまる作品だ。しかし、注目したいのはその先だ。スパイと、情報提供者は、国で言えば本来仮想敵同士で、イデオロギーも異なっているはずだ。情報を得るために「自らを偽り」「演じ」「騙して」いたはずだ。しかし、なかには結婚し家庭を持ったカップルまでいるのだ(相馬千秋 「嘘からでたまこと」のパフォーマンス)。
プロパガンダと情報操作の蔓延した時代における私たちの「敵対」を乗り越える可能性が、ここに示されていないだろうか。
高山明の「アーティスト・コールセンター」は、展覧会中止後に出展アーティストらが立ち上げたクラウド・ファンディング「ReFreedom_Aichi」で資金を集めて実行を目指している作品で、一言で言うと、様々な電凸やクレームの電話を、アーティストが対応するパフォーマンス(?)だ。電話というメディアを介して、「他者」とダイレクトに向き合う仕組みになっており、「美術」「討議的理性」を共有していない人とまさに直面せざるを得ないものになるのではないか。
場に集まって討議的理性で議論をする、対話をする、それは重要なことだが、アーティストたちがそのような言葉による、ハーバーマス的な「対話」にばかりに閉じていくようであれば、アートである意義がなくなるのではないだろうか。少なくとも、現状の問題を解決する力とはなりにくいのではないか。
美術作品は、狭義の「言葉」ではない。もっと感覚や印象に訴えかけることのできるものであり、討議的理性では伝達困難なものを伝え得るコミュニケーションメディアだ。であるからこそ、きっと、アートにしか可能ではない突飛な「公共圏」「対話」の発明があるはずで、それをこそ、世界的な困難を乗り越えるためにアーティスト達には期待せざるをえないのだ。
(文:藤田直哉 @naoya_fujita/ 編集:南 麻理江 @scmariesc)