身近な工場の存在
私は金物のまち燕三条で生まれ育った。
中部地方の日本海側に位置する新潟県。その南北に細長くのびる真ん中にあるのが燕三条だ。
家の近くには多くの工場(こうば)があり、毎日「ガシャン、ガシャン」と工業用機械の音がする中を登下校した。なんとも言えない金属の錆びたような、油のような匂い。雑に積み上げられた金属片。薄暗い屋内。「ゴーーーー」と音を立てる排気口。
幼い頃は何か不気味な感じがして、工場の雰囲気が苦手だったのを覚えている。そそくさと足早に前を通り過ぎていた。そして、身近にこうやって工場が存在することが当り前だと思っていた。
世界に誇る燕三条のものづくり
燕三条は「ものづくり」の街として発展してきた。
特に金属加工の技術が高いことで知られている。
APEC首脳会議で使用されたタンブラー
ノーベル賞授賞式の晩餐会で使用されたカトラリー(ナイフ、フォーク、スプーン)
ヴィダルサスーンなどの一流ヘアーサロンで使われている理容バサミ
世界で認められているものが、この燕三条で作られている。
日本一の金物の街と言っても過言ではないだろう。
宝の持ち腐れ。地域の抱える課題
このような「世界に認められるものづくりがある」という事実をどれだけの人が知っているだろうか。またその「ものづくり」の魅力に気づいている人はどれだけいるのだろうか。
なぜこんな話をするのかというと、三条出身の私自身が生まれてこの方二十数年間気づけていなかったからだ。工場に対して「薄暗くて、油臭い」そんなイメージしかなかった。そして、町にこうやって無数に工場が存在することが当たり前だと思っていた。そこで誰が何を作っているのか、気にもとめたこともなかった。
以前、職場の上司に「なぜこんなに素晴らしいものをもっと早く教えてくれなかったのか」と怒られたことがある。仕事で燕三条の工場を見せていただいた後の一コマだ。
職人の技術と製品に込められた想い、作り上げられる美しい製品を見たときにその通りだと反省した。
私は、自分の身の回りで何が作られているかも知らなかった。
同時に、燕三条の人々自身がその価値に気づいていないことにも気づいた。内輪の価値に気づけていないことも、燕三条をはじめとする多くの地域が抱える問題であると感じた。
工場それぞれの伝え方
地元民もなかなか魅力に気づかないような発信下手な燕三条の工場だが、何もしていない訳では無い。
そもそも何もしてなければこうやって私もその魅力に気づくことはできなかった。
その一つとしてオープンファクトリーという形でものづくりの現場を一般公開している工場がある。
SUWADA OPEN FACTORY
この燕三条地域のオープンファクトリーで代表的なものが『諏訪田製作所』だ。
ニッパー型の爪切りがよく知られ、ている。その切れ味から愛用者も多い。
諏訪田製作所のオープンファクトリーは、燕三条初初めての試みとして2011年に始まった。今では年間3万人もが来場する燕三条有数の観光地となっている。
製品を作る際にでる廃材を使ってのブランキングアート作品(ブランキングアート)を展示するなどして見学に来たお客を楽しませている。このアイディアも、実際の作品も職人たちが作り出したものだ。
ただ作るだけでなく、どうすれば見てもらえるのか、楽しみながら知ってもらえるのかと職人たちも考えているのだ。
そして諏訪田製作所の職人たちは自ら率先して見学者のアテンドを希望する。
これはものづくりへの想いを直接お客へ届けたいという想いから来ている。
実際に現在アテンドしている営業担当の社員従業員も一通りの製品工程を体験して今に至っている。
諏訪田のシンボルカラーであるの黒で統一された工場は普段目にする工場の印象を一掃する。
ただ単純にかっこいいと思わせる、そんな洗礼されたオープンファクトリーだ。
ギャラリーには諏訪田の歴史と共にモデルチェンジしてきた製品が並ぶ。
ガラス張りの通路からは、製品1つ1つを丁寧に研磨している職人の姿を見ることができる。
このようなオープンファクトリーも初めからすんなりと職人に受け入れたわけではない。
以前は関係者以外立ち入り禁止、そんなごく一般の工場の形をとっており反対する職人も多かった。しかし時代によって変わるニーズと、ものづくりを伝えたいという想いから徐々に職人もオープンファクトリーを受け入れていった。
では、全ての工場がこのようなオープンファクトリーの形をとり成功しているのだろうか。また、このような道へ進もうとしてるのだろうか。その答えはNoだ。
先ほど紹介した諏訪田製作所のような工場は燕三条に存在する工場のうちの数社に過ぎない。多くの工場が出来ていない。それはしたく無いのでは無い。出来ないのだ。
中には技術を盗まれることを恐れて公開したくな無い企業も中にはいるかもしれないが、多くの企業は費用、人手など様々な理由から出来ないのである。また、下請けとして他社の製造を請け負うOEMを扱う工場も多く、簡単に一般へ公開できないという事情もある。
日野浦刃物工房
その中の一つが100年以上の歴史を誇る『日野浦刃物工房』だ。
今は親子二代で包丁、斧を伝統的な技術で作り続けている。
日野浦刃物工房の工場は何も一般向けに整備されていない。鍛冶屋そのままの姿がそこにある。
工場の見学は依頼のあった時にしか行わない。
人手も無い中お願いされた時に引き受けるのには理由がある。
自分たちの持っている技術力と商品の価値を伝えたいと言う想いがあるからだ。
「ただ製品を見るのではなく、その製品が作られるまでのプロセスを知り本当の価値を知って欲しいのだ」と4代目の日野浦睦さんは言う。
自動化の流れに流されることなく、伝統を守りながら作り続けて来た。正確には自動化の流れに乗れなかったとも言う。自動化するためにはそれなりの設備が必要となり、費用もかかる。それが出来なかったのだ。
しかし、周りの小さな鍛冶屋が次々と姿を消す中で日野浦刃物工房は生き残って来た。
それは、鍛治と言うものづくりと向き合い、良い刃物はどういうものか、金属の温度・工程がどうなれば良いものができるのかと追求して来た証拠だ。
ここまでしたからこそ世界から評価される刃物ブランドを作り上げ、今まで生き残って来た。
共通の想い
工場といっても一言では言い表せない。
先に紹介した工場は2社の事例にしかすぎない。技術も規模も様々な工場が存在する。
オープンファクトリーとして整えられた工場。
自動化された近代的な工場。
昔から変わらない鍛冶屋としての工場。
様々な姿があり、1つとして同じものはな無い。
また、時代の流れよって変わるニーズに応えようと工場も変わりつつある。
工場を開くことで、普段は完成した商品を手にすることしかできないお客に、商品が出来上がるまでの工程や職人たちのものづくりへの想いを伝えることが出来る。
どれだけの手間暇がかかっているのか。
どれだけ妥協のないものづくりなのか。
どれだけの想いが込められているのか。
現代には今あなたが見ているメディアやSNSのように写真、動画など様々な伝え方がある。しかし、その場でなければ伝わらないものがある。
商品を手に取っただけでは伝わらない、形のないものがそこには存在する。
工場に足を運び、目で、耳で、体で感じる。
みなさんにも体験して欲しいのだ、私と同じように。
言葉や写真、動画だけでは伝えることの出来ない魅力を自身の体で体験して欲しい。
世界から認められる燕三条のものづくりをあなたに伝えたい。
伝えることが、燕三条で生まれ育った私の使命だと思うから。
------------------
------------------
※この記事は、燕三条ローカリストカレッジの受講生が取材・執筆した記事です。