私の本当の名前は鈴木綾ではない。
かっこいいペンネームを考えようと思ったけど、ごく普通のありふれた名前にした。
22歳の上京、シェアハウス暮らし、彼氏との関係、働く女性の話。この連載で紹介する話はすべて実話にもとづいている。
個人が特定されるのを避けるため、小説として書いた。
もしかしたら、あなたも同じような経験を目の当たりにしたかもしれない。
ありふれた女性の、ちょっと変わった人生経験を書いてみた。
◇◇◇
ようやく太郎の「10周年記念の有給休暇」がとれて伊豆に行くことになった。
土曜日の朝はベッドでゆっくりごろごろして、昼過ぎぐらいに太郎の車で4泊の旅行に出かけた。高速道路がそんなに混んでなかったし、天気がピーカンだった。太郎がラジオをかけて、笑顔を見せてくれた。久しぶりにリラックスしていた。心密かに太郎のことが好きじゃなくなっていたと分かっていたけど、これなら太郎は最初の頃の二人の感じに戻れる、と期待した。
翌日に太郎と車で伊豆シャボテン公園に行って、カピバラにエサをあげて二人の気分が晴れた。社会人のこと、働くこと、これからの日本のこと、昔よく話していたことについて久しぶりに話し合った。
そんな、アドバイスをたくさんくれるかっこいい先輩のような太郎が一番好きだった。確かに前の情熱が完全に冷めたし、健太のことでお互いの間の信頼関係が深く傷つけられていたけど、その日のその透き通った青空の下で久しぶりに落ち着いた気持ちになれた。愛でも恋でもないけど、こういうのもありかな、とその時思った。
土曜日が無事に終わった。
翌日の午後にホテルの近くのカフェでコーヒーを飲んでいたら、太郎の携帯が鳴った。
「ちょっとごめん」と太郎が電話に出てお店のそとで消えた。
太郎がテーブルに戻ったら、私はケーキを食べてしまっていて、彼のコーヒーは完全に冷めていた。
「綾、本当に申し訳ないけど、明日は東京に戻らなきゃいけない。」
「え、どういうこと?あと3泊あるのに」
「戻らなきゃいけない。大事なディールが...」
「だけど、有休とったじゃない?太郎には休む権利がある」
「本当にごめん。綾は水曜日までいてもいい。来週末また戻ってもいいし。本当に。お金出す」
「信じられない。私も休みをとったのに。太郎の会社は最悪」
「最悪なんか言うな。俺があそこに勤めてるからいいホテル泊まれるし、きみにケーキを食べさせてあげられるよ。そういうの忘れないでよ」
喧嘩が行き止まった。私は反論できなかったので黙ってカフェの外の庭を見た。
夜、ホテルのフレンチレストランで二人で旅行の最後の食事をした。
彼は私の時間をいつも独占しようとしていた。なのに、結局はいつも自分の都合で動いていた、と食事をしながら思った。彼に言われたから私は彼のことを仕事よりも友だちよりも優先していた。それってダブルスダンダードじゃないの?どんどん怒りがこみ上げてきた。
最後に口を開いた。
「太郎はなんで二人の休みの時間守ってくれないの? 一緒に休みをとったのに意味わかんない」
太郎がすぐ怒った。
「綾はなんで理解できない?仕事だから、仕事しなくちゃいけないんだよ」
「あたしだって仕事しなくちゃいけないよ。だけどあたしは太郎と一緒に旅行に行きたかったから休みをとった。働いているのは太郎だけじゃないよ」
「自分の仕事の方が大事って今言ってる?最悪。僕だって綾のために一所懸命働いてる」
「そうじゃなくて、綾も二人の時間を確保するために休みをとって、その休みの期間を守ってるよ」
「僕はお金を稼がなくちゃいけないんだ。僕達結婚するでしょ?そのためにお金が必要。住宅ローン払ってるし。綾と僕のファミリーを養うために働かなくちゃいけない。それを諦めろって言ってる?」
「違う!私は太郎がいなくても自分で生きていけるよ! 誰があたしの家賃払ってると思う?あたし! あたしが酔っ払って家に帰るとき、誰があたしをベッドに寝かせてると思う?あたし。 私は自分のことすべてを自分でやってる!」
「僕をいらないって? 僕はこんな苦労したのに。綾のために離婚したのに!そんなワガママなことを言うのはやめて!」
「違うよ! 離婚のこと私に押し付けちゃだめだよ」
「綾に言いたかったけど、離婚がこないだ成立したんだ。だけど綾は友達とずっと遊んでたから言う時間がなかった」
太郎が私との約束を守ってくれないことと何の関係もないはずなのに、そこでその情報を辛辣ななげなわのように私に投げた太郎がずるかった。離婚したから、きみは僕の言うことを聞かなきゃ...。
超えちゃいけない一線だった。私は大人のプライドを持っていたからそんな泥投げ戦争はしない。しないけど、怒っていた。
食べ終わったら、二人でバーラウンジに移動した。私は怒りで手が震えていた。
私はポートで太郎はウィスキー。太郎はウィスキーを少し飲んでから、また離婚の話を始めた。
「離婚って失敗。社会人として失敗。色々な人に心配と迷惑をかけたし、キャリアにも傷がついた。その失敗を一生背負わなければならない。だから絶対に綾を不幸にさせて失敗しない」
「キャリアに傷がついた?」
太郎はウィスキーをもう一杯注文した。
「綾に言わなかったけど、結婚していた相手がすごい家庭で育った。その関係で今回の離婚で色々めんどくさいことがあった。彼女のお父様は銀行協会の会長だった人」
「それって、どっかの大銀行の頭取だった人ってこと?」
「そう」
「前の奥さんは今何をしてる?」
「ずっと不妊治療をしてた。それが体に大きな負担をかけた結果仕事をやめた。今実家に住んでると思う。 だけど、綾は今まで一度も僕の離婚のこと聞いてくれなかったね。今日綾がたくさん聞いてくれて、うれしい」
太郎があと3杯くらいウィスキーを飲んで、ベロベロになって吐き出すように離婚のことを語り続けた。
「前の人はずっと子供ほしかったけど、できなかった。だけど、セックスも嫌だった。僕が家に帰ったら彼女がもう寝ちゃってて、キッチンに「ここに精子入れて」と瓶が置いてあった」
黙って太郎の話を聞いていて、さっきの怒りが溶けて太郎がかわいそうに見えてきた。もし私が太郎に会わなかったら、彼はずっと前の人と結婚していたのかもしれない。
「幸せ」はすべてではないけど、お互いが不幸なのに、なんで離婚しようと思わなかったんだろう。瓶に精子を入れるなんて、そんな冷たい人工的なやりかたで赤ちゃんなんか生まれない。
離婚は人生の失敗だって、太郎は何を心配していたのだろうか。彼女のお父様のこと? 奥さんを守れなかった自分? それとも自分のキャリア? 結婚相手の家族がだれであろうが、結婚がうまくいかなければ離婚した方がいいに決まっている。
太郎にとって、いい夫、結婚相手になるっていうのは、一生懸命働いてお金稼いで女性を自分の力で守ろうとすることだったんだね。立派なお父さんに、こうやって自分は彼女を守っています、あなたの娘をちゃんと養っています、って言えるってことだったんだ。 そんな「男らしさの固定観念の檻」に閉じ込められていた太郎が哀れでかわいそうだった。
部屋に戻ったら太郎は布団に入らずにベッドの上で寝ちゃった。
私はクローゼットから追加の毛布を出して、二人にかけて寝た。
夜明けの前に目が覚めた。胃がムカムカしていた。トイレで前日の夕飯の残りを吐いた。
カクテルを2杯しか飲んでなかったのでムカムカはお酒のせいじゃなかったし、吐き出したのは夕飯の残りだけじゃなかった。
吐いたあと、頭がすっきりした。
太郎が「頭痛い」とうめきながら5時半に起きた。6時にホテルを出たかったので焦って荷物をまとめた。
「太郎は2日酔だからあたしが運転する」
出発してすぐ(なかなか寝てくれない)二日酔いの太郎がまたぐずぐず言い始めた。
「綾はどうして黙ってる?昨日離婚の話したのに言いたいことない?」
太郎は球を投げたらいつも即時の反応を求めていた。
「言いたいこと?おめでとう?」
「ブーーーーーー」と太郎がブザー音をした。「君の日本語はマジでおかしいよ。おめでとうってなんだ」
「綾の感覚はいつも太郎のとずれてるじゃん。何を言ってほしいか、教えてよ。当たり前だけど、太郎が何を考えてるかわかんないから」
「こんなに長く付き合ってるのにわかんない?バカ。これからの僕たちの将来の話がしたいよ!ようやく前に進められるのに、綾は後ろ向きなことばっかりいう」
太郎をどう落ち着かせようかと思っていたら、いきなり思い出した。
「ごめん。ホテルに戻らなきゃいけない」
「忘れ物?」
頷いた。なぜか分からなかったけど、目に涙が浮かんできた。
「何忘れた?」
「ねっく、ネックレス」
「聞こえない、何?」
「ネックレス。ダイヤモンドの」
太郎が怒って私に飛びかかりそうになった。
今まで散々言葉の暴力でいじめられてきたけど、物理的な暴力は振るわれたことはなかった。
でもこの時は、直感的に「殴られる」と思って、怖くなって左に急ハンドルを切って道を外れた。
車が止まった。
「なにやってんだ!俺を殺したいのか。気をつけろよ!」
もう一回太郎の目を見た。色々な期待、固定観念に縛られて無意識に檻に閉じ込められた太郎をかわいそうに思っていたけど、その瞬間に彼の目が表した恐ろしさにどうしても哀れに思えるところが見つからなかった。
牙をむき出す野獣は人に閉じ込められているから残虐なのか?それともその野獣はそもそも残虐だから人間に閉じ込められているのか?その答えはどっちでもいい。どっちにしても殺意は、ある。
自分のカバンを掴んで、ドアを開けて、森に逃げた。