どの病院で研修するか。これは、全国の医学部6年生が抱える悩みです。出身大学の付属病院に残るか、地元にある大学病ないしは市中病院を選ぶか、或いは大都市の病院にいくか、地方の病院に行くか。今の研修制度では、自由に選択することが出来ます。
研修病院の選択は「マッチング」という制度に基づき、6年生の10月末に決定します。この制度では学生が希望する病院を登録し、病院の希望と合えば、晴れて研修病院として決まるというものです。希望する学生が多い場合、不採用になる学生も出てきます。このため、通常は第二、第三志望まで登録するのが普通です。ただ、採用枠の方が学生数よりも大きいため、病院さえ選ばなければ、必ず、どこかには採用されます。
私のことをご説明します。私は、大学5年生の春から研修先を考え始めました。初めは、生まれ育った関西で研修しようと考えていたのですが、夏ごろから、「東京で働きたい」と思うようになりました。きっかけは、滋賀医大の実習で、東大医科研の上昌広先生の研修室に御世話になってからです。その後、何度か東京を訪れた際に、全国から人が集まってくる東京にすごく魅力を感じるようになりました。「関西の文化とは違う、東京の文化に触れたい」と強く思うようになったのです。
ただ、話は、私の希望通りには進みませんでした。結論から申し上げますと、私は、来年の春から、福島県の南相馬市立総合病院で働かせていただくことになりました。「東京と言っていたのに、なぜ南相馬なの?」と思われる方が、沢山いらっしゃると思います。長くなりますが、マッチングの発表があった日からの出来事を話させていただきます。
10月23日の14時、初期研修病院の発表がありました。応募した唯一の東京の病院に、私はマッチしませんでした。私は、この病院にしか希望を出しませんでした。
一つの病院しか希望を出さなかったので、駄目かもしれないと覚悟はしていたのですが、自分が想像していた以上に落ち込みました。一次募集の直前まで悩んでしまい、履歴書を送ったにも関わらず、東京の病院を2つも蹴って受験しなかったことを、心の底から後悔しました。
涙が止まらず、途方に暮れていたのですが、とにかく病院を探さないといけないと自分を奮い立たせ、がむしゃらに2次募集をしている東京の病院に、電話をかけ続けました。気がついたら夜でした。その時の私を支えて下さった先生方には、本当に感謝の気持ちで一杯です。
なんとか、いくつかの病院に面接をお願いすることができ、安堵することが出来たのは夜の9時頃でした。その時、南相馬の病院が2次募集しているということ、1名の枠だけ空いているということを知りました。
私が今お世話になっている東大医科研の研究室には、南相馬や相馬で勤務なさっている先生方が、たくさんおられます。だから、南相馬での初期研修については、よく伺っていました。ただ、当時の私は東京に出てくることしか頭になく、大学4年生の冬に、南相馬に一度足を運んだことはあったのですが、そこで研修医として働くことは、全く考えていませんでした。
しかし、南相馬の病院が1枠空いていると知った時、南相馬に行ってみたいという思いが、自分でも分からないくらいに、募ってきました。2年間、南相馬に行って研修することが、私にとって本当はいいのではないか、と直感でそう思いました。
夜中も近かったのですが、すぐさま東大医科研研究室に連絡し、その旨を伝えました。そして、南相馬市立総合病院の副院長の及川友好先生に繋いでいただきました。
南相馬市立総合病院には、震災が起こった直後、避難することなく病院に残り続け、病院を守られた先生が3人いらっしゃるのですが、及川先生はそのうちのお一人です。
次の日の朝、「受け入れを了解します」とのご連絡をいただいた時は、決まって良かったとほっとしました。と同時に、両親や家族には心配をかけてしまうなと思うと、辛くなりました。
両親に、福島で研修することになった事を今すぐ伝えるかどうか、かなり迷いました。関西に住む両親は、福島のことを、震災時のテレビや新聞での報道を通じてしか知りません。だから、原発のこと、放射線のこと、実家のある大阪からは遠く離れた福島に行くこと、あらゆることで心配をかけてしまうことが、目に見えていました。
少し時間をおいて話すべきか、本当に迷いました。しかし、行くことが決まったのにも関わらず、それを黙っておくのは良くないのではないか、と思い、母親に南相馬に行くことに決まったことを話しました。
この話を聞いて、母親は泣きました。
「まさか、福島に行くとはね、、、本当に大丈夫なの?」と言われました。
自分で南相馬に行く決心をしたこと、マッチングが駄目だと分かってからの7時間考えあぐねた結果、2年間の研修を南相馬でやることが私にとってベストだと思えたこと、そして、南相馬での受け入れ許可が出たことを伝えると、「あなたが自分で決めたなら、応援するわ」と言ってくれました。
父親には、電話で伝えたのですが、「なんで、、、」と言われただけでした。
卒業試験がまだ2科目残っているタイミングでの、マッチングの発表でした。研修病院がすぐに決まったとはいえ、私は勉強をまともに出来る精神状態ではありませんでした。そんな時、南相馬や相馬の先生方、東大医科研の先生方、友達からの温かいお言葉を頂きました。今でも忘れられません。
何とか卒業試験を乗り切り、研修先の病院の面接日も決まりました。しかし、面接の日が近づいてくるにつれて、なんとも言えない不安が押し寄せてきました。どうしようもなくなり、かつて一緒に南相馬に行った、宮城県出身で虎の門病院の看護師1年目の樋口朝霞さんに相談しました。震災後、南相馬や相馬に何度も足を運んでいる彼女は、南相馬に行くことになった私を心配し、本当に親身になってくれました。夜勤明けの貴重な2連休だったにも関わらず、一緒に南相馬に行ってくれると言ってくれました。鹿児島県出身の友人の島津久崇さんも、一緒に車で行くことを快諾してくれました。
面接前日、東京にある研究室を出発し、常磐自動車道と一般車両が3年半ぶりに通行可能となった国道6号線を通って、南相馬に向かいました。人影のない道に並ぶ、もぬけの殻となった店舗が、私の目に飛び込んできました。「事故多発 獣と衝突」と書かれた看板が、道路脇の所々に立てられていました。警備員が立ち入り禁止区域の前で立っている様子を、何度も目にしました。私にとって最も衝撃的だったことは、第一原発がある大熊町の民家に、頑丈なバリケードが張られていたことでした。民家への侵入を防ぐバリケードは、まるで城門のようでした。自分の家なのに入ることが出来ないことを思うと、本当に辛かったです。想像をはるかに超えた町の様子に、本当に言葉を失いました。双葉町、浪江町も同じような町の様子でした。こんなにも居た堪れない気持ちになったことは、今までありませんでした。
津波で流され何も無くなった平地や、道路脇に積まれた瓦礫や除染廃棄物の横を通り、北上を続けると、途端に町の様子が変わりました。コンビニや飲食店の明かりが灯り、人の姿も見え始めました。とても安堵したことを、今でも覚えています。
南相馬市内に入ると、先ほど通ってきた町とは別世界が広がっていました。道路脇には明かりのついたお店がたくさん並び、道にはたくさんの車が走っていました。
南相馬市立総合病院が見えてきた時、二年前に樋口さんら友人と来たときの記憶が鮮明に蘇ってきました。その時お会いした先生方、病院の医局、玄関、駐車場、車をとめた場所まで思い出しました。この土地に住む方々の、温かさや優しさを次第に思い出すにつれ、この病院で来年から初期研修することに対する不安が、すこし和らいだ気がします。
その夜は、南相馬市立総合病院の研修医1年目の澤野豊明先生が、歓迎会を開いて下さいました。呼吸器内科の神戸敏行先生、内科の根元剛先生、研修医1年目の岩崎陽平先生や、隣の相馬市にある相馬中央病院の越智小枝先生、森田知宏先生、新地高校の高村泰広先生も来てくださいました。なんと、院長の金澤幸夫先生も来て下さいました。震災が起こった直後、避難することなく病院に残り続け、病院を守られた、残り2人の先生が、金澤先生と根本先生です。面接の前日に、院長にお会いできるとは、まさか思ってもいませんでした。「来年から我々と一緒に働きましょう」と、金澤先生はおっしゃって下さいました。こんなにも暖かく迎え入れて下さる先生方がいらっしゃる病院に巡り会えた私は、本当に幸せだと感じました。
マッチングの発表のあった日に味わった絶望感は、今でも忘れられません。しかし、多くの方々に応援し、支えていただいたからこそ、私は研修病院に巡りあうことができました。泣き崩れる私に何度も電話を下さった上昌広先生、2次募集している病院を即座に探してくださった森田知宏先生(相馬中央病院)と宮坂政紀先生(仙台厚生病院)、心配して下さった東大医科研の研究室の方々、面接に行く私を心配し、一緒に来てくれた樋口さんと島津君、温かいお言葉を下さった多くの先生方や友人、そして歓迎会を企画して下さった澤野先生や来てくださった先生方には、感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。
私は、来年の春から、南相馬市立総合病院で働きます。初の女性研修医です。面接の際に伺ったのですが、関西出身の医師としても初めてだそうです。
南相馬でしか出来ない研修をしたい、と私は思っています。そして、南相馬で経験したことや感じたことを、多くの人に知っていただけるよう発信していきたいと考えています。今後ともよろしくお願い申し上げます。