『復興レポート』東日本大震災からきょうで7年。被災地の復興状況をお伝えするこのレポート。第2回は、宮城県南三陸町の今をお届けします。
先日、宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区の今をお伝えしましたが、今回は、宮城県南三陸町を、2014年と2018年の2回にわたって取材したようすをお伝えします。
南三陸町は、宮城県北東部にある町です。リアス式海岸である三陸海岸に位置するこの町は、過去にも何度も津波による被害を受けてきました。
リアス式海岸では、V字型で置くに行くほど狭くなるため、幅が狭くなる分、波が一箇所に集まって高くなりやすい性質があります。
昭和35年にはチリ地震による津波で被害が出るなど、海外の地震による津波被害も発生しており、数十年に一度は津波による影響を受けてきた地域でした。
それゆえ、津波に対する防災意識も非常に高い町でした。
しかし、そのような意識をもっていた町でも、東日本大震災では、想定をはるかに超えた自然の猛威に襲われました。
浸水高は15.9mにまで達していたと推定され、人口約1万7000人の町で、620人(2018年2月現在)の方が亡くなりました。また、約70%の住宅がほぼ全滅しました。
こちらが2011年当時のようす。ほとんどの家が流され、ビルは鉄骨はむき出しになっており、街ごとなくなってしまいました。
あの日から7年・今も続く大規模な工事
私がはじめて南三陸町を訪ねたのは、震災から3年後の2014年。
周辺でかさ上げ工事が進み、ダンプカーが行き交い、当時の印象は「まるで大規模な工事現場にいるよう」でした。ただ、「ここに街があったことが想像できない」というあ然とした感覚は、先日レポートした名取市閖上地区と同じ印象でした。
唯一、街があったことを気づかせてくれたのは、道を走っていると突然消える景色でした。
入り組んだ海岸沿いを走っていると、途中「津波浸水区間 ここから」という看板が出てきます。すると、それまであった建物や木が突然なくなり、広く平らな土地に行き着きます。
津波によって流されてしまったことを証明する、なんとも言いがたい光景でした。
そして、今年2018年。河川周辺や橋の整備が進んでいますが、引き続き大規模な工事が続いている状況です。
南三陸町の志津川地区では、過去や東日本大震災の津波の高さをもとに、約10mのかさ上げを行っています。
今も、すれ違う車はほとんどが工事関係の車で、4年前と同様、「工事現場のよう」という印象が強く残りました。
また南三陸町といえば、「防災対策庁舎」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
この場所では、町民を守ろうと町職員の方々が、津波が押し寄せる最後まで避難を呼びかけ続けましたが、3階建て(高さ13m)の建物を超える高さの津波に襲われ、43名が亡くなりました。
2014年、初めてこの跡地に足を運びましたが、当時は平らな土地の中にぽつんとたたずんでいた建物は、周辺の整備とかさ上げ工事が進み、今は近づくことができません。
すぐ横を流れる八幡川の堤防は、建物がすっぽり隠れてしまうほど高さに作られました。その高さに驚きましたが、これが、実際にここまで津波がきたということの証明なのです。
なお、この防災対策庁舎は、保存か取り壊しか未だ結論が出ておらず、宮城県が2031年3月まで維持管理することになっています。
ゆっくり一歩ずつ復興の道を歩む町
まだまだ、復旧工事が続く南三陸町ですが、どこよりも先駆けてオープンしたのが昨年2017年にオープンした「南三陸さんさん商店街」。
2012年から仮設店舗で営業していましたが、かさ上げした土地に移転オープンし、現在28のお店が並んでいます。
木の香りがする建物内には、地元の素材を扱う鮮魚店や加工品店をはじめ、おいしい海鮮が食べられるお食事どころもあります。
その他にも、電気屋や衣料品、美容室など、地域のみなさんの生活を支えるお店もたくさんあり、顔見知り同士で笑顔で会話する光景もみられ、とてもあたたかい気持ちになりました。
まだ長い道のりですが、7年たって、ここで暮らしたいと願う町民のみなさんの想いが少しずつ形になり、ゆっくりと街は復興しています。
南三陸町は、これからどんどん姿を変えていくでしょう。
まだまだ、たくさんの人や町が、復興に向けてがんばっています!
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