Twitterが燃えている。アメトークの高校中退芸人の件だ。
まず、私はアメトークが好きだ。家にテレビがない生活になってもう長いけど、アメトークはよくネットで見ている。
「高校中退芸人」もたまたま番組を見ていて、全体的には楽しく見ながらも、そのシーンにはモヤモヤしていた。彼女の語る当時の西成高校の話が、根も葉もない嘘だったとは言わない。西成のことがテレビでネタになるのも私は悪いと思わない。実際話題にことかかないユニークでおもしろい街だと思う(それでも千鳥ダイゴの10円玉の話は「ほんまかいな」と思ったけど)。
例えば私は「月曜から夜更かし」は好きだ。まちネタの番組で東京の下町と言いながら、足立区や荒川区を取り上げる。でも、あの番組は、そんな地元への愛がにじみ出てる人たちも登場するし、マツコ・デラックスが、爆笑ながら「ああもうこの街超おもしろい、大好き」「ネタ提供していただいてお世話になってる」という感じで表現するので、「蔑み」感は薄い。
まあでもあれも嫌だと感じる人はいるだろう...。
私が今回、まずかったと思うのは、2点。
まず重要なのは、実際の高校名を具体的に出してしまったこと。西成高校への新たな、さらなるレッテル貼りを生み出し、生徒に実害がある。校長が異議申し立てをするのは当然だ。編集できるのだから、編集すべきだったと思う。また、一番引っかかったのはMCの宮迫が「行かないほうがいいまち」と解説的に挟んだ一言。あれが、全体としてのメッセージ性を決定づけたと私は思う。
一方で、今回くだんの芸人さんはかなりつらいんじゃないかなあ...とも思っている。自虐ネタにすることで過去や自分にくっついてるアイデンティティ(今回で言えば、西成高校出身であることや、高校中退組であること)を肯定したり昇華しようとすることってあるし、分かる。社会的にネガティブなイメージを持たれる属性を背負ってる人たちが、それを跳ね返そうとするときに、独特の体験や環境をユーモアにするっていうことは生きる術でもあって、尊いとすら思う。テレビで言えば、その好事例がアメトークの「中学時代イケてないグループに属していた芸人」だと思っているのだけど。今回のテーマもそうなりえたと思うのだけど、実際はこうなってしまった。
彼女があえて高校名を出したのは、西成にくっついているマイナスイメージを逆手にとって、インパクトを持たせたかったんだろう。西成高校ネタは多分、これまでも彼女のサバイバルツールだったんじゃなかろうか。でもやっぱ、それはテレビでダメだったんだよ…と何とも言えない気持ち。。
前段にいろいろ雑感を書いたけれど、Twitterの反応などを見ていて、もうちょっと社会一般の共通理解になればいいなと思うことがあるのでここにまとめたい。
①「社会的スティグマ」というものが差別を正当化する。
社会によって、個人や特定の集団に対するネガティブなレッテル、烙印のことを社会的スティグマというふうに言う。西成の街や西成高校には、まさにこの社会的スティグマ、がへばりついていると言える。
スティグマを背負った人たちを蔑む、差別することが正当化されたり、「当たり前のこと」とされていく。西成高校の高校生たちも、西成に暮らす人たちも、嫌な思いをたくさんしてきた。
例えば、バイトの面接で履歴書を見た雇用主に眉をひそめられる。「西成に住んでいる」というと彼女の親が彼女に「大丈夫なの?」と耳打ちする。そんな中で、出自や母校を隠している人も少なくない。今回の報道はスティグマの表出であると同時に、スティグマをさらに強化するもの。「こんなの普通にOKでしょ」というスタンスは、生きづらい人を増やすことにこと他ならない。
②貧困と差別によって困難な状況が世代を越えて連鎖する。
差別が貧困を産み、貧困が差別を産み、負の連鎖が続いていく。
これは図で説明する方が分かりやすいと思うので、見てもらいたい。
貧困と差別がその人たちから機会を奪い、力を奪い、非社会化・反社会化するリスクが高まっていく。
これは、いわばある属性の人たちの生活の実態として立ち現れた“もう一つの差別の姿”とも言えると思う。そして、実態として現れた差別は、新たな差別と偏見を産む。「やっぱり西成の人ってこわいじゃないか」「治安が悪いのは事実だ」「行かない方がいい」といった、まさに今回の件でTwitterに溢れているような無数の声。それがまた西成の人や西成高校の生徒をしんどい状況に追いやっていく。
西成高校は、今“荒れている”というような状況ではないと私は認識している。また、例え当時“荒れて”いたとしても、それは社会的に厳しい状況に置かれている子どもたちのしんどさの表現であり、SOSでもある。これは大人でも同様で、“困った人”は実際は困っている人だ、というのは福祉や教育の世界では普通に認識されていることだと思う。西成高校は、そのような生徒のSOSにも、ずっと向き合ってきた学校だ。この負の連鎖に楔を打つような人権学習・反貧困学習や、生活指導や、仲間づくりをしてきた。学校自体が、強固なスティグマを背負わされながらも、子どもたちと地域の抱えるしんどさを、どうにかしようとしてきた。
その人、その子、その家族、その地域に現れている問題は、その個人やその地域の問題でのみあると考えるのは不十分だと思う。その問題を生み出す社会的背景や社会構造を見つめたり、そこに考えを向けられる人に増えてほしい。
③「不当な一般化」がさらなる排除を生む。
例えば一件の自転車盗難が起きたとする。北区で起これば「たまたま」「北区でもこんなことあるんだねえ」となることが、西成区で起これば「やっぱ西成はやばい街だ」と言われる。
日本人が犯罪を犯しても「そういう日本人もそりゃいるよね」という話になるけれど、外国人が犯罪を犯したら「やっぱり外国人を受け入れると治安が悪化する!」というような反応になる。これを不当な一般化、と言う。
普通に想像できると思うが、これは、上記の社会的スティグマを負う人や集団・地域に対して、すごく起きやすい。
割合は違うかもしれないが、どこの地域にもいろんな人がいる。どこの地域でもいろんな事件が起きる。
Twitterには、「西成でこんな事件があったんだって」とか「西成でこんな目にあった」と言う書き込みが溢れていたが、二次情報で信ぴょう性の疑わしいものもたくさんある。個人の経験を書き込んでいるものにしても、それって1回の出来事を「西成だから起きた」と不当に一般化している側面は、ないだろうか。
最後に
西成は確かに、しんどさを抱える人が多く暮らす地域だろう。でも、それを乗り越えよう、状況を変えようと頑張っている、踏ん張っている人がたくさんいる地域でもある。そして、その人たちを支えながら一緒に生きている人たちもたくさんいる地域である(セーフティネットが日本一張りめぐらされている地域、という側面もあると思う)。
西成高校も同様で、それまでの10数年の人生で、いろんなことに傷けられたり、不当な扱いを受けて自尊心を削られながらも、自立や自分の人生のために踏ん張っている生徒がたくさんいるのだと、私は先生伝いに知っている。
西成のことをさして知らずに(私もまだまだ勉強中だが)、西成高校の今を知らずに、負のレッテルを貼り、噂話的に消費することが、中の人たちにどんな思いをさせるか想像してみてほしい。ましてや今回、一番傷つくのは高校生だ。
今回の一件が「別にいいじゃん」となってしまう社会を放置してはいけないとやっぱり思う。
番組を見ていて、モヤモヤしながらも何もアクションを起こさなかった自分への反省と今回“問題化”してくれた人たちへの敬意を込めて、この文章は書いて発信しておきたいと思いました。少しでも多くの人に、ここに書いた3つのことが理解されてほしいと切に願います。
本記事は、2019年4月20日のnote掲載記事
「西成?西成高校?実際やばいじゃん」という人に知っておいてほしい3つのこと。
より転載しました。