兵庫県多可町に住むイラストレーターの小椋聡さん(49)と、妻の朋子さん(50)。
聡さんは2005年、JR福知山線脱線事故に遭遇した。後遺症との苦闘、交流していた遺族の自殺、朋子さんの精神障害、会社を退職...。事故を境に、夫婦の人生は一変した。
それぞれの局面で、互いをどう見つめていたのか。結婚25年を機に、自身が経営するデザイン事務所に出版部門を立ち上げ、『ふたつの鼓動』というタイトルの本にまとめた。
「人生の危機は誰しも一度は訪れる。いいことも悪いこともコインの表裏のようなもの。次々に降りかかる困難を受け止め、向き合ってきた歩みを記すことが、誰かの役に立つかもしれない」と話す。
25年前の4月24日、2人は結婚した。大学を出たばかりで作曲家志望の小椋聡さんと、パイプオルガン奏者の朋子さん。式は挙げず、奈良県の聡さんの実家に朋子さんが転がり込んだ。
やがて動物保護施設に2人で住み込み、子どもの教育を支援するNPOを立ち上げ...と、好きなことを続けてきたら、生活費がなくなった。31歳で初めて就職活動をして、聡さんは美術展を企画運営する会社の、編集デザインの仕事に就いた。
2005年4月25日の月曜日、聡さんは兵庫県西宮市の自宅から、電車で30分の大阪市内の職場に向かった。いつものように、JR福知山線に乗って。
聡さんの乗った快速電車は、尼崎駅の手前で猛スピードを出し、カーブを曲がりきれずに線路脇のマンションに衝突した。運転士を含め107人が死亡、562人が負傷した。車体がつぶれてマンションに巻き付き、最も死者の多かった2両目で、聡さんは気がつくと人と座席の山に折り重なっていた。
(聡)折り重なっていた山の下の方から、女性の「助けて下さい」という声が聞こえてきました。かがんで見てみると、仰向けの女性の顔だけが見えており、その上にはたくさんの人や座席が複雑に積み重なっていました。上に折り重なっている人たちも全員が血まみれになっており、中には片目が潰れている方や、顔が裂けている方などもいましたが、ほとんどの方が意識を失っているか、既に死亡しているようでした。(『ふたつの鼓動』から。以下同じ)
「事故や...周りで人がいっぱい死んでる...」。自力で脱出した聡さんの電話を、朋子さんが受けた。
(朋子)聡くんは本当に大丈夫なの? こういう時はどうすれば良いの? 私の頭の中は疑問だらけで、夫が電話してくるかもしれないと思うと、家を出るにも出られず、部屋を行ったり来たりするだけの、まるで役に立たない木偶の坊でした。(...)電話を待つしかできなかった自分を13年半経った今でも悔いています。
聡さんの外傷は右足の骨折だったが、病院での診断ミスや鞭打ちの症状などで治療が長引いた。自宅にはメディアの取材が入れ替わり押し寄せた。聡さんは「奇跡的に生き残った者の使命」と、記者一人一人に事故の様子を再現して聞かせた。朋子さんは横でじっと聞いていた。
同じ電車に乗り合わせたという以外、被害者に共通項はない。聡さんは遺族や負傷者との接点を求めて、様々な会合に出かけていった。
犠牲者がどの車両のどの位置に乗っていたのか、知りたいと願う遺族は多かった。生き残った者として、遺族の役に立てることはないか。生存者の証言を集め、当日の乗客の乗車位置を特定する活動が始まり、小椋家は連日、打ち合わせの場所になった。
そうした活動が一段落し、事故から1年半が過ぎた2006年10月15日、夫婦で親交の深かった遺族の女性が1人、突然、自ら命を絶った。
朋子さんの精神に、この頃、重大な変化が表れる。
「せめて自分がしっかりしないといけないと思った私は、完全に感情が凍ってしまいました。泣けなくなってしまったのです」。
事故遺族の悲しみや、負傷者の夫の心労を2年近く、一身に受け止め続けた朋子さんの体重は、30キロ台まで落ちて行った。
(朋子)2007年1月頃、私は激しい幻覚症状と手足のしびれ、他人とうまくコミュニケーションがとれないなどの状態になりました。一番ひどかったのは幻覚症状で、一日中、様々な音や音楽が聞こえたことと、何も書いていない紙に黄色い模様が見える症状でした。
躁と鬱が交互に訪れる「双極性障害」と診断された。家中の電気を消して毛布にくるまり「消えてしまいたい」と何日も念じ続ける。かと思えばネットで手当たり次第に高額な買い物をしたり、何日も眠らずに家中を掃除して回ったりする。
杖なしでは歩けなくなり、入退院を繰り返すようになった朋子さんを見て、聡さんは会社を辞めて独立した。「あのとき会社を辞めずに妻を家に一人で残した状態にしていたら、おそらく今頃、彼女はこの世にはいなかった」
「動物といのちと子どもの教育」をテーマにしたデザイン事務所を立ち上げた。仕事の依頼はそれなりに来て順調なつもりだったが、あっという間に貯金が底をついた。
(聡)40歳前のいい歳をした男が、病気の妻と犬2匹、猫3匹を抱えて全財産が5000円という窮地に追い込まれました。(...)事故現場の献花に持っていく花を買うことができず、川原に生えていた菜の花と庭に咲いていたヤマブキを花束にして持っていったこともありました。(...)自分の性格がどんどん荒んでいくのが分かりました。
2013年6月、家賃の高い西宮から、夫妻は引っ越しをした。大阪まで車で1時間40分、山間部の兵庫県多可町へ。朋子さんの生きる支えとなっている大阪でのパイプオルガン演奏に通える距離で、聡さんの長年のあこがれだった里山での古民家暮らしを始めた。
初夏には蛍が飛び交い、夜には無数の星が輝く。朋子さんも躁と鬱の間を行き来する日々だが、以前のように突然倒れたりすることはなくなった。
(朋子)どこを見ても山がある今の環境は、私にとって大きな慰めとなっています。(...)生涯治らないと言われていますが、うまく付き合っていく方法を見つければ良いのだと心に言い聞かせて、日々を過ごしています。
聡さんは、各地で動物のいのちをテーマにした子ども用教材の企画開発や、イラスト制作などを請け負う。自宅を改装してギャラリーにしたり、地元の人と仲良くなって古民家再生の団体を結成したり、もともと縁もゆかりも無かった土地で、田舎暮らしに着実に根を下ろしつつある。
子どものいない夫婦だけの25年。いわば他人同士ながら、互いの困難を受け止めて共感し、支え合ってきた人生を、著書ではこんな言葉で締めくくった。
(聡)私は事故の当事者として人前に立って目立つことが多かったのですが、それを続けてこられたのも、陰で常に妻が私のやることに共感してくれて、「あなたのやっていることは正しい、間違っていない」という姿勢を示し続けてくれたからです。
家族、恋人、友人などの顔を改めて思い浮かべてみて下さい。彼らが今ここにいて、同じ時間を生きてくれていることは奇跡以外の何者でもありません。
(朋子)何より、生きて私の元に帰ってきてくれたことに感謝しています。本当に奇跡的な生還だったと思います。
私たちの人生は、あの事故から、確実に違う方向へと引っ張られてきたことは間違いありません。でも、どんなときでも夫は自分の信念を貫き、活動してきました。そして、大きな包容力で私の病をも包み込んでくれています。
2人の人生は、これからも続いていく。