2021年3月、記者会見の席で、福田理恵さんは思わず言葉をつまらせ涙ぐんだ。
その福田さんの後ろに歩み寄ったのは、パートナーの藤井美由紀さん。寄り添うようにそっと肩に手を乗せた。
「理恵が泣いて話せなくなったから、そばで支えたいと思って。そばに行けば私の気持ちも伝わると思ったんです」と、藤井さんは振り返る。
ふたりはこの日、法律上の性別が同じふたりが結婚できるよう求める裁判、通称・同性婚裁判の原告に加わった。
提訴会見での涙の理由を「色々な気持ちが溢れてきたから」と福田さんは話す。
「私は20年近く、自分を殻の中に閉じ込め、ガチガチに守りながら生きてきました。それを破ってくれたのが弁護団の人たちや美由紀です。みんながいなければ、私はこうして人前に出ることも、自分を受け入れることもなかった。ここにいるのはみんなのおかげだなという気持ちから涙が出てきました」
傷ついた最初のカミングアウト
福田さんが自分を殻の中に閉じ込めるきっかけになったのは、人生最初のカミングアウトだったという。
福田さんが初めて女性と付き合ったのは、20代半ば。その後「この人なら絶対受け入れてもらえるだろう」と思える人にカミングアウトした。
それは福田さんの親族で、海外生活が長くゲイの友人がいるとも話していたから大丈夫だろうと思っていたのだが、返ってきたのは予想外の反応だった。
「友達はいいけれど、家族にはいて欲しくない、精神的に異常だと思う――」
そう言われて泣かれてしまい、福田さんは深く傷ついた。
「それからはもう誰からも異常と言われたくないから、『私は異常じゃない』と自分で自分に言い聞かせながら生きてきました」
暗闇から引っ張り上げてくれた人
それからは10年以上、カミングアウトせずに生きていた福田さん。人生を変えたのが、2014年の藤井さんとの出会いだった。
藤井さんのことを「美由紀は私を暗闇からひっぱり上げてくれた人」と、福田さんは話す。
ふたりはSNSのコミュニティで出会い、すぐに惹かれあった。そして何百通ものメールを交わした後、4カ月後には交際を始めた。
ところが人生が良い方向に変わりそうに思えたその1カ月後、福田さんの乳がんが判明する。
「前々からしこりがあるなと気付いていたんですけれど、美由紀から何かおかしいよ、病院に行こうって言われて行った病院で、がんと診断されたんです」
1カ月後には手術を受けることになった福田さんを、病院探しから付き添い、術後の闘病に至るまでずっと支え続けたのが、藤井さんだった。
「付き合ってすぐに病気になったら、面倒だから距離を置こうかなと思われるのではと思ったんですけれど、全くそんなことはなくて」
「手術の直後は激しい痛みと吐き気で動けず、体がベタベタして家族にすら見せたくないような姿でしたが、美由紀は痰をかき出したり、体を拭いたり、背中をさすったりしてくれました。私の中で、美由紀が一気に恋人から家族になったんです」
体調の悪い日は2年ほど続き、「長く生きられないかもしれない」と気弱になった時もある。そんな時も、笑顔で「大丈夫、絶対に大丈夫だから」と、藤井さんが励ましてくれたから乗り越えられた、と福田さんは振り返る。
「明るい美由紀の笑顔を見ていると、大丈夫かもと前向きになれました。美由紀がいなければ、私は生きていないだろうなと思います。彼女は私を暗闇から引っ張り上げてくれた人で、命の恩人です」
ただ、入院した病院では付き添えるのが親族だけだった。付き添うために、福田さんは病院に藤井さんのことを「いとこ」と伝えなければならず、そのことに心苦しさを感じた。
「私は自分のことを隠さなければいけないことに、ずっと生きづらさを感じてきました。それなのに大切な人のことをいとこだと嘘をつかなければいけないような生きづらい社会の一員になっていることに、矛盾や心苦しさを感じました」
亡くなったら何もできない
さらに手術の後、悲しい出来事も起きた。入院と手術から3ヶ月後に、闘病中だった福田さんのお母さんが亡くなったのだ。
藤井さんと出会った後、福田さんの中には「いつかは美由紀のことを、家族に伝えたい」という思いが芽生えていた。
しかし、亡くなったらその願いは叶えられない。「死は絶対だ」という現実に福田さんは大きなショックを受けた。
伝えられない悲しみは、藤井さんも同じように感じていた。
藤井さんはいつかはお父さんに「理恵という素敵な人と幸せに暮らしているから安心して」と伝えたいと思っていたが、その願いが叶わないまま、2年前にお父さんが亡くなった。
「父が亡くなった時、理恵のことを伝えられなかったことを本当に後悔したんです。もうこんな思いはしたくないと思いました」と藤井さんは話す。
行動しようと思った
伝えられなかった後悔は、福田さんと藤井さんの心に重く残った。
さらに結婚できないことで相手を守ることができないのではという不安も感じていた。
そんな時、ふたりは同性婚をテーマにしたイベントに参加し、そこで「台湾で同性婚が認められたのは声をあげた人がいたからだ」と聞いて、ハッとしたという。
「それまでは結婚したいとは思っていたけれど、アクションをとっていなかった。でも変えたいなら、自分たちも声をあげなきゃいけない、待っているだけじゃダメだって思ったんです」と福田さんは話す。
「自分たちのできることからやっていこう」と話し合った福田さんと藤井さんは、周りにカミングアウトすることを決意。
最初に、Facebookで同性のパートナーがいることを友人や知人に伝えた。
さらに、福田さんは勤めていた会社のパートナーシップ制度に申請。それまでは制度はあったものの利用者はゼロで、会社からは「当事者はいないのかと思っていた」と驚かれたという。
一方、会社にパートナーシップ制度がなかった藤井さんは、社長に直訴して制度を作ってもらった。
「同性のパートナーがいるので、同性パートナーシップ制度を作ってください、職場にLGBTQの人たちはいるからあった方がいいですよって言ったら、2カ月後に作ってくれました。さらにその後、ファミリーシップ制度も導入してくれました」
カミングアウトに対する周りの反応は、福田さんいわく「20年近く殻に閉じこもっていたのが拍子抜けするくらい」好意的だった。
「みんな受け入れてくれてすごく嬉しくて。なんだ、私自分のままでよかったんだ、と感じました」
藤井さんも「Facebookで公にして幸せに暮らしていると言ったら、『なんで言ってくれなかったの』『知らなくてごめんね』とみんなから祝福してもらえました」と話す。
藤井さんは九州の保守的な街の出身で、家族には受け入れてもらえないのではという心配もあったが、お母さんやお兄さんたちは「美由紀が幸せならそれが一番」と、パートナーがいることを喜んでくれた。
生きづらくない社会に
福田さんはその後転職し、転職先でも同性パートナーがいることを伝えて、藤井さんを配偶者とみなしてもらっている。
また、住んでいる自治体にパートナーシップ制度の陳情もして、2021年3月には同性婚訴訟の原告に加わった。
「とにかく言っていこう、沈黙するのはやめようって決めてやっています」と、福田さんは話す。
「会社にパートナーシップ申請し、公正証書も作って相続もできるようにしたものの、それだけだと100%相続できるという保証はないんですよね。結婚できるようにして美由紀のことを守りたいという気持ちから、訴訟に加わることを決めました」
「また、母親も死んで自分もがんになり、もしかしたら長く生きられないかもしれないというのがすごく強烈な経験で、残りの人生は自分らしく生きていきたいという気持ちもありました」
自分を隠して生きなければいけなかったふたりが目指すのは、若い世代が自分を隠さずに生きられる社会だ。
「私たち、レインボープライドの時には代々木公園で手をつなぐんですが、他のところだとつなげない。でもこれからの若い世代が、LGBTQであろうがストレートであろうが、同じ人間として生きていける、堂々と手を繋げる社会になるようになって欲しいんです」と藤井さんは話す。
20年前に比べると、LGBTQの人たちの存在はずっと知られるようになり、パートナーシップ制度を導入する自治体も増えている。
それでも、自分たちの身近な人たちのことだと思っている人はまだ少ない、と福田さんは感じている。だから、訴訟を通して近くにいる人のことなんだと受け止めてもらえたらと話す。
「LGBTQの人たちいるという認識は広がっていると思うんですけれど、自分の知り合いや隣にいる人という認識は広がっていないのかなって思っています」
「でもLGBTQの人たちは10人に1人くらいはいると言います。それであればクラスや会社にも必ずいるはずだし、知り合いや親戚、同僚、友達の中にいるかもしれない。そしてその人はもしかしたら悩んでいるかもしれないし、一生添い遂げたいと思っている人と結婚できず、悲しい思いや不安な思いをしているかもしれません」
「そういうことに思いを馳せて、この訴訟や同性婚に対して、関心を持っていただけたら嬉しいと思っています」