NPO法人こども哲学・おとな哲学アーダコーダは、幼稚園の年少学級に相当する3歳から小学3年生までのこどもたちを対象に、神奈川県・逗子でこども哲学教室を主催している。先月まで教室の運営を手伝ってくれていたインターン生6名が無事インターンを終え、今月からは私とアシスタントのTさんで20名近いこどもと哲学対話をする。
「先生が減っちゃうんだけど、どうしようか」私はどんなクラス編成にしようか悩んだ結果、先月こどもたちに素直に相談した。すると一番年上の小学3年生(9歳)たちから「小学生は自分たちで哲学ができると思う。先生はちいさい子をみてあげたらどうか」という返事が返ってきた。
哲学をすることは、こどもにもできる。むしろこどもこそ、哲学者だ。と言いながら、私は心のどこかでいつの間にか、こどもには哲学対話の進行まではできない、と思っていたのではないかと反省した。こどもたちからの心強い返事が嬉しかった。
一方で、こどもたちに、私たちが実践している哲学対話の「進め方のコツ」を伝えなければならないという気持ちも芽生えた。一体、哲学をするということはどういうことなのか。こどもにもわかるように何を伝えたらいいのだろうか。
哲学とは何か。真理の探求だと一言で片付けることは簡単だけど、「哲学をする」とはどういうことかは、一筋縄ではいかない気がする。答えがひとつとは限らない問いを、ああでもない、こうでもないと考えることではあるけれど、では答えが絶対にないのかと言えば、真理があると信じて突き進む以上、答えはあるはずだ、と考えているとも言える。
コンパスの示す場所はどこか
MITメディア・ラボの所長、伊藤穰一氏は「地図よりもコンパスの時代」だという。私は仕事を生み出すという点においては、その通りだと思う。では、コンパスの針は何を指し示しているのか。コンパスの針は、なぜ、その方角を指し示しているのか。コンパスに狂いはないのか。
海で方角を見失った船乗りたちは、北極星を手がかりに航路を確認することができる。宇宙がまだ、私たちのコンパスとなりえていた時代には、私たちはコンパスすら持たなくてもよかったのだろう。
ゲーリー・スナイダーは1996年、著書「野生の実践」の中で、我々は、大洋、大気、空の鳥たちと、世界的規模の「自然契約」を結ぶ必要があると説いた。そもそも私たちは自然と一体の存在であるはずなのに、自然契約を結ばなければならない時代に生きている。
私たちは、言葉にできることはわずかしかないけれど、言葉の裏側でいろいろなことを考える。こうかな、ああかな、ともやもやしながら生きている。いわば、呼吸をするかのように哲学をしている。
ところが、哲学をすると言われると、新鮮に感じ、また取り戻すべき営みであるかのように錯覚してしまう。本当は、貧しい人も富める人も、老いも若きも、誰もが日々の暮らしにおいて哲学をしているのに。
北極星は今も北の空に輝いている。人は、誰もが暮らしの中で哲学をしている。哲学をするには、日々の思考を「ああ、これって哲学だったのか」と気がつけばよいだけなのではないだろうか。
誰もがすでに善く生きている
誰もが善く生きようともがいている。私と意見や思想の違う人も、それぞれが正しいと思うことを求めて、私以上に考えている。
考え方の違う相手をこそ、本来は褒め称え、自らのコンパスの針を見直すきっかけとするべきだろう。より善く生きようとする私たちは、その手前にある「すでに善く生きている」ことを認め合う必要がある。
正しさの闘争は、政治においても、家庭においても、経済においても存在する。私たちは正しさの闘争を繰り返す。歴史の中で、あるいは人生の中で失敗を繰り返しながら。
フランクフルト大学、コロンビア大学の教授であり、社会科学研究所の所長でもあるアクセル・ホネットは、近年「The Idea of Socialism: Towards a Renewal (社会主義の理念)」の中で、資本主義に投与すべきカンフル剤として社会主義を再定義、再構築しようと試みている。
能力のある者が、能力に応じた自由を獲得するべきだという新自由主義は、自由を獲得できない人間があたかも「能力がない」かのように誤解されてしまう恐れをはらんでいる。
本来、生き方の自由とは能力に応じて獲得されるものではない。他者の生き方や信条を、肯定はできずとも、せめて承認した上で、私たちは社会における自由を発揮するべきだ、というのがホネットの主張だ。
こどもにも、こどもなりに考える哲学がある。こどもの哲学はむしろ「哲学」というラベルで切り取られた行為よりも、より広く豊かな行為だ。
私たちおとなはその行為から、私たちの考えている「哲学」らしいものだけを抽出することしかできていない視野のせまい存在であり、本当の世界をこどもたちから教わる立場にある。
お互いの考えを安心して伝え合える社会を
コンパスだけで突き進む社会に、地図は要らないと断言できるのか。地図とは、先人が蓄えた危険を回避するための道具ではなかったか。
宝の島を示す地図は、宝のありかを指し示している場所以外のほとんどすべての面積を、安全の確保に使用している叡智の賜物だ。
おとながこどもにできることは、コンパスを持って進む勇者が、谷底に落ちないように、あるいは毒ベビに噛まれることのないように、安全を確保することだろう。
安全や安心は、思ったことを自由に言いあえる哲学対話をする上で、最も重要なことだと私は思う。暮らしの中で一人一人が考えている「哲学」を伝え合いづらいのは、お互いを思いやる安心や安全がないからではないか。
安心できる対話空間を、哲学をする上での「進め方のコツ」として、こども哲学教室の勇気ある小学生たちにも伝えられたらと願っている。もちろん未就学児には、心休まる時間を過ごしてもらえるように苦心し続けたい。
今週末のこども哲学教室は、海遊び。海開き間もない逗子海岸で、全身で自然と対話する子どもたちから私が学びたい。