昭和天皇とマッカーサー元帥が並び立つ3枚の写真がある。それぞれ微妙にポーズが違う。一般に知られている写真は1枚だけ。では残り2枚は何なのだろうか。
いずれもポツダム宣言の受諾から約1カ月後、1945年9月27日に東京・赤坂のアメリカ大使館で、撮影されたものだ。
日本の「戦後」をかたちづくった歴史的な写真の秘話をお届けしよう。
■人間宣言の前に「人間」になった昭和天皇
モーニングの正装で直立する身長165cmの昭和天皇。その横で、身長180cmのマッカーサーは開襟シャツの軍装だ。手を腰に当てて、いかにもリラックスしている。
この写真が撮影2日後の29日に新聞各紙に掲載されると、内閣情報局は「皇室の尊厳を損ない、公安に害がある」として、一旦は頒布を禁止した。しかし、GHQはその日のうちに「新聞と言論の自由に関する新措置」指令を出し、政府の禁止令を覆した。新聞は半日遅れで読者の元に届いた。朝日、毎日、読売各紙の1面を飾った。
新聞を見た日本人のショックは大きかった。歌人の斎藤茂吉はその日の日記に「ウヌ!マツカアーサーノ野郎」と書くほどだった。
比較文化論の研究者、眞嶋亜有(まじま・あゆ)氏は、この写真が当時の日本人に与えた効果について、以下のように書いている。
この写真をみて日本人が衝撃を受けたのは、まぎれもなく天皇は肉体をもった、洋装の、そしてマッカーサーの肩ほどの細く小柄な体型の、ひとりの人間として写し出されたからである。昭和天皇は一九四六年一月一日をもって「人間宣言」をし、以降、洋装で全国を巡業したが、昭和天皇が「人間」になったのは、むしろこの写真が流布された瞬間からだった。(「文藝春秋SPECIAL」2015年春号に掲載された「天皇・マッカーサー写真の衝撃」より)
戦時中に「現人神(あらひとがみ)」として神格化されていた昭和天皇が、この写真を通じて紛れもない「人間」だったことを示すことになったのだ。
■3枚目の写真が選ばれた理由は?
マッカーサーと昭和天皇の会談は計11回に上った。第1回となった9月27日の会談は、昭和天皇を戦争犯罪人として位置づけるかどうかが国際的に焦点になる中、昭和天皇がアメリカ大使館に行って、37分間話し合った。
その冒頭で撮影されたのが、あの歴史的な写真だった。
「文藝春秋」1975年11月号に掲載された児島襄氏の記事によると、通訳を務めた外交官・奥村勝蔵氏の手記には「米国軍写真師ハ写真三葉ヲ謹写ス」とする記載や、「実際写真屋ト云フノハ妙ナモノデパチパチ撮リマスガ、一枚カ二枚シカ出テ来マセン」とするマッカーサーの言葉が記されているという。
写真を撮影したのは、マッカーサーの専属カメラマンだった米軍のジェターノ・フェーレイス中尉。彼の著書「マッカーサーの見た焼跡」(文藝春秋)には3枚の写真が掲載されている。この本の中でフェーレイス中尉は、当時の様子を次のように振り返っている。
「写真は三枚撮った。最初のショットは、マッカーサーの目がつぶれていた。二枚目は天皇が口を開いていた。三番目は完璧だった。この三枚目の写真が公式写真として発表された」
マッカーサーが目をつぶっていて威厳が損なわれていたり、昭和天皇があまりリラックスしていたりすると、宣伝写真としての効果が薄れてしまう。
そこで「直立不動の昭和天皇と、リラックスしているが威圧的なマッカーサー」という3枚目に撮られた写真が、日本人に「敗戦」を知らせる上で、もっとも効果的という判断をGHQが下したのだろう。
この歴史的な3枚の写真は、アメリカ・バージニア州のマッカーサー記念館に所蔵されている。
【参考文献】
・「文藝春秋」1975年11月号=児島襄「天皇とアメリカと太平洋戦争」
・「朝日新聞」2005年09月29日朝刊=(天声人語)時代を語る写真
・「朝日新聞」2012年10月06日夕刊=(昭和史再訪)プレスコード開始 20年9月 新聞検閲、戦勝国の「特権」
・ 江藤淳「占領軍の検閲と戦後日本 閉された言語空間 」(文春文庫)
・榊原夏「マッカーサー元帥と昭和天皇」(集英社新書)