「シンプル・ライフ・ダイアリー」7月24日の日記から。
「シンプル・ライフ・ダイアリー」を日本語と英語のバイリンガルで書くと決心したものの、「思ったより大変な作業だなあ。みんな、興味を持って読みたいと思ってくれるのかな?」と、後悔しそうになっていた。そんな時、友人のイアンからこんなメッセージが届いた。
「偽りのない真実にこそ、価値がある。僕らが、望んでいるのは、君が人生を通して表現する本物のストーリー。君がシェアしたいと思っていることを、僕らは読みたいんだよ」
このメッセージのおかげで、私の中の疑いは消え、前進するのを引き留めていた何かが外れたようだった。心の底から喜びが湧いてきて、初めて本を出版した時のことを思い出した。
今から28年前のこと。私は、小さなタレント事務所で電話番として働いていた。タレント事務所は、双子の女の子の歌手が一組所属しているだけで、オーナーは彼女たちの母親であり、社長は雇われ社長で、ドリフターズのマネージャーをしていた人だった。
そんなある日、社長が、唐突に私に尋ねた。
「菊池さん、何か、歌詞のようなもの書ける?」
彼女たちは、いくつか、ヒット曲を飛ばしたのだけれど、その後、経済的に困難な状況に陥り、歌詞と曲を無償で提供してくれる人を探していたのだった。
「やってみます!小学校の頃、詩のクラブに入ってましたから、作詞は得意です」
結果がどうなるかなどとは、考えず、即答した。
思いつくままに、2つか、3つ、恋愛の歌詞を書いて、翌日、社長に見せた。すると、社長は歌詞を気に入ってくれ、2か月後には、曲が付き、レコーディングされた。
それがきっかけで、次は、男性ボーカリストのために歌詞を書き、これも、2曲、CDアルバムの中に収録されて発売された。なんだか、狐につままれたようだった。すると、ある日、また、社長が唐突に尋ねた。
「菊池さん、もう少し長いの、何か書ける?恋愛小説のようなもの」
「やってみます!」私は、また、何も考えずに即答した。子供の頃、漫画を描くのが好きで、ラブストーリーを作っては、それを漫画化していた。何か、書けるだろうと、漠然と思っていた。
家に帰って、いくつか、短いラブストーリーを書いた。すると、社長がそれを出版社の編集者に見せ、あっという間に、出版することが決まってしまった。「Heartful Wind」というのが、本のタイトルだった。
翌年、続けて2冊目を同じ出版社から出した。すると、今度は、それが他の出版社の編集者の目に留まり、3冊目を別の出版社から出すことになった。
3冊目は、「恋する理由をおしえてよ」というタイトルで出版された。十代、二十代の女の子向けの恋愛エッセイで、どうやって、好きな男の子にアプローチするか、どうやって、恋愛関係を続けるか、と言ったアドバイスが詰まった本だった。
私は、自分の経験を元にエッセイを書いた。恋愛にまつわる、喜びと興奮と涙のエピソードや、気分の浮き沈みや悩みの話を通して、何があっても、どんな恋愛の形であっても、そこから学び、成長することができるというメッセージを伝えたかった。
この本は、初版1万部が印刷され、驚いたことに、たった一週間で再版が決定したのだった。これは、私にとっても、出版社にとっても、晴天の霹靂だった。私の名前は、全く知られていなかったし、まだ、ライターとしては、駆け出しだった。
本の売れ行きが、予想以上に良かったので、それから、年に一冊のペースで恋愛エッセイを出版した。4冊目、5冊目、6冊目、7冊目。その間に、私は、結婚し、家を新築し、タレント事務所を辞めて、フリーになり、ライターと通訳の仕事を始めた。
人生は 順調に行っているように見えた。けれども、結婚生活は、お世辞にも幸せなものとは、言えなかった。若い女性向けの月刊誌に恋愛のアドバイスのコラムなどを書いていたけれど、実際の結婚生活は、アドバイスができるようなものではなかった。
次第に、もっと、自己啓発や自己成長のための本を書きたいと思うようになり、8冊目は、「どうしたら、幸せになれるか」という内容でエッセイを書いた。それは、自分に向けて書いたと言ってもいい。その本を書いている間に、夫が病気になり、私自身が、その答えを求めていたのだから。
夫の病は、パニック症候群から始まった。ある日、突然、全身が麻痺して、動けなくなってしまったのだ。救急車で大学病院に運ばれたけれど、精密検査の末、肉体的には、何の問題も見つからず、精神科を受診するようにと言われた。
すると、精神科のお医者さんは、「稀なケースで、症状を認定できない」と言い、いくつかの薬を試しながら、様子を見てみることになった。でも、投薬を始めてみると、気分の浮き沈みが激しくなり、夫は、深いうつ状態に陥るようになった。会社に勤めることは、もう、無理だと判断し、会社を辞め、発作の度に入退院を繰り返した。
正直言って、薬が効いているのかどうか、彼にも、私にも、わからなかった。注射は速攻性があるようで、注射の後は、とても陽気で、エネルギーに満ちていて、病気が完治したかのように見えるのに、次の日は、どんと落ち込んで、膝を抱えて部屋の隅に座り込み、「怖い、怖い」と繰り返し、呟いていた。
私には、本を書くための気力も体力も残っていなかった。生活を支えなければならず、安定した収入が必要だったこともあって、フリーランスを辞めて、国際展示会を主催する会社の海外事業部で働き始めた。
仕事は、楽しかった。次第に家に帰りたくなくなり、毎日、率先して残業した。夫の病状は少しも良くならなかった。
パニック障害が起こって、全身が麻痺しそうになると、夫から携帯に電話がかかってきた。仕事を中断して、帰宅し、全身が硬直してしまった夫をタクシーに乗せて、病院へ連れて行き、注射をしてもらって、家に連れて帰り、会社に戻って残業するということもよくあった。
今思うと、よくそんな生活を続けられたものだと自分でも驚く。6年ぐらい、そんなことが続いた。そして、ある年の夏、突然、夫は、自らの命を絶った。
ショックと混乱。自責の念と絶望。あらゆる感情が怒涛のように押し寄せて、自分を見失ってしまいそうだった。どうしたら、この状態から出られるのか、分からず、闇雲に、もがいているような気がした。友人が、そばにいて、支えてくれたのが、本当にありがたかった。会社の同僚も上司も、温かく見守ってくれた。けれども、それ以上、仕事を続ける意味が見つからず、3か月後に仕事を辞めた。
しばらく、精神的な混乱が続いた。なぜ、夫が自殺したのかという問いが、頭から離れなかった。そんな時、催眠療法が助けになるかもしれないということを本で読んだ。調べてみると、自宅の近くに、催眠療法をするセラピールームがオープンしたばかりだった。
催眠療法を受けるうちに、心の重荷が取れ、少しずつ、生きる気力が蘇って来た。そして、1年間は働かずに、自分のために、自分の好きなことだけをして暮らしてみようと、思い立った。どんな人生を生きたいのか、と思いを馳せていた時、浮かんできたのは、こんなイメージだった。
私は、丘の上にある家の縁側に座っていて、遠くの山並みや若草色の田んぼや畑を見下ろしていた。犬を一匹飼っていて、家の横には、家庭菜園があった。
「ああ、どこか、田舎に住んで、野菜を育てながら、書き物をして暮らせたらいいなあ」と、そう思ったのだった。
ポールに出会ったのは、それから、すぐのことだった。ポールが人々の善意に支えられ、15年間もお金を持たずに、地球を歩いて、木を植えてきたという話を聞いて、私は深く感動した。そこから私が感じたのは、「希望」という二文字だった。書きたいという情熱が湧いてきて、帰宅してすぐ、ポールの話をブログに書いた。
すると、翌日、それを読んだ友人の編集者が電話をくれ、「ぜひ、彼の話を本にしよう」と言ってくれたのだった。まるで、長い間、閉じられていたゲートが一気に開いたかのようだった。
それから、半年も経たないうちに、ポールの日記を翻訳して、出版し、ポールの旅に参加して、沖縄を一緒に歩き、恋に落ちた。結婚し、中国、韓国、日本を歩き、行く先々で木を植え、最終的には、南米チリのパタゴニアにたどり着き、土地を買い、家を建て、畑を作ったのだった。
パタゴニアに来てから7年間、ずっと、畑を作ったり、家を作ったりすることで、満足していた。でも、二人とも、ここでの生活の基盤ができたら、次は、書くことに集中しようという思いをずっと持っていた。
それなら、何を書くか、と考えた時、パタゴニアでの生活をありのままに描きたいという思いが自然と浮かんで来て、それが、「シンプル・ライフ・ダイアリー」になった。
長い道のりだったけれど、ようやく、人生の全ての局面が、一つに統合されたような気がする。
私は、今、心から満たされている。
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