自分を論理的だと思っている人へ/論理的思考は魔法の杖ではないって話

ここ数年、「論理的思考」がバズワードになっている。論理的思考を磨かなければと誰もが強迫観念にかられ、今では「ロジカルな人」が最高の褒め言葉だ。40年前のサラリーマンが「モーレツ」であることを誇りに思い、10年前のビジネスマンがチーズはどこに消えたのか頭を悩ませていたように、現在の日本では「論理的思考」が尊ばれている。まるで、魔法の杖のように。

ここ数年、「論理的思考」がバズワードになっている。

論理的思考を磨かなければと誰もが強迫観念にかられ、今では「ロジカルな人」が最高の褒め言葉だ。40年前のサラリーマンが「モーレツ」であることを誇りに思い、10年前のビジネスマンがチーズはどこに消えたのか頭を悩ませていたように、現在の日本では「論理的思考」が尊ばれている。まるで、魔法の杖のように。

論理的思考さえ身につければ何もかも解決できる。あらゆる失敗の原因はロジカル・シンキングの不足にある。そんな「論理的思考万能説」が、今の日本には蔓延している。こうした万能説を唱えること自体が論理的思考の不足なのだが、そのことに気づかない人も多いようだ。「論理的思考」への絶対の信頼は、もはや信仰に近い。

たしかに論理的思考は便利だ。しかし、万能ではない。

そこで今回は、論理的思考へのよくある誤解を4つ取り上げたい。論理的思考に何ができて、何ができないのか、一度ハッキリさせておこう。

1.「論理的である」とは「遠慮がない」という意味ではない。

どういうわけか、「気を遣わないこと」を「論理的だ」と思っている人はとても多い。感情面に配慮せずに議論することを「論理的な議論」だと信じている人には、なんというか、もう、げんなりさせられる。

言うまでもなく、論理的であることと、他人の感情に配慮することは、対立概念ではない。論理的に事実の分析を積み重ねながら、同時に他人の感情に配慮することも可能だ。論理的思考と感情的配慮は両立できる。

ただし、極端に論理的でありながら感情面にも気が回る「ほんとうに頭脳明晰な人」は、とても希少だ。

そういう人物に、私は今までの人生でたった2人しか出会っていない。私はむしろ運がいいほうで、1人も出会わずに生涯を終える人も少なくないだろう。「ほんとうに頭脳明晰な人」の存在を知らなければ、論理的思考と感情的配慮が両立することを理解するのは難しいかもしれない。

自分は論理的だと思っている人は、まず「ただ遠慮がないだけ」なのか、それとも、ほんとうに頭脳明晰な人を目指しているのか、自省してみるといいだろう。

2.論理的思考力は、物事を単純化して考える力ではない。

三段論法は論理的思考の入り口だ。AならばB、BならばC。したがってAならばC……というアレだ。しかし現実の問題はA、B、Cのたった3つの要素に分解できるほど単純ではない。例外と確率的要素に満ちている。したがって単純な三段論法だけでは、本来、複雑な現実の問題に対処できない。

そのため、論理的思考力を実用する場合には、さまざまな事実と予想を列挙して、優先順位をつけていくしかない。複雑な事象を複雑なまま扱うことこそ、論理的思考力を身につける究極の目的だ。

ところが世の中には、論理的思考=三段論法だと思っている人が珍しくない。複雑な事象をそのままでは扱えず、カリカチュアライズしなければ理解できない人が驚くほど多い。

現実は複雑だ。

例外はいつでもある。結果を確率的にしか予想できない場合もある。そういう現実世界の複雑さを無視すれば、自分を論理的な人間だと信じていられる。勝手に創造したルールの中で、いくらでも論理性を維持できるからだ。優勢遺伝の法則という現実を無視すれば、「子の性質は神が決める」という主張は充分に論理的だ。

自分は論理的だと思っている人は、まず「ただ現実を単純化しすぎているだけ」ではないか自省してみるといいだろう。

3.論理的思考力とコミュニケーション能力は違う。

おそらく自己啓発系の書籍やセミナーでは、「論理的なプレゼンをしましょう」「商談では論理的思考が役立ちます」と繰り返されているのだろう。これらの主張は、おそらく事実だ。論理的思考力がある人は、プレゼンも交渉もそつなくこなせるだろう。しかし論理的思考力は、プレゼン能力や交渉力――広義のコミュニケーション能力ではない。

論理的思考力を、プレゼン能力・交渉力と混用している人は多い。

下手くそなプレゼンを見たときに「あいつは論理的思考が弱い」と笑い、商談に失敗した部下に「論理的思考を磨け」と叱咤する。論理的思考力とコミュニケーション能力を混同した典型的な例だ。

「Rootportは人間である」という命題は正しい。しかし「人間はRootportである」という命題は正しくない。同様に、「プレゼンが上手い人は論理的思考ができる」という命題はおそらく正しいが、しかし「論理的思考のできる人はプレゼンが上手い」とは限らない。ロジカルでもプレゼンが下手な人は存在しうるし、プレゼンが下手だからといって非論理的な人だとも限らない。

一つの命題が正しいからといって、その命題の逆・裏が正しいとは限らない。ある事象と別のある事象とに因果関係が認められるとして、因果を逆にできるとも限らない。プレゼン能力や交渉力からは、その人のロジカルさを推し量ることはできない。それを無視して、論理的思考力とコミュニケーション能力を混同することこそ、非論理的な態度だと言わざるをえないだろう。

ロジカルであることと、コミュニケーション能力があることは違う。たしかに、ロジカルでない人は、コミュニケーション能力にも限界がある。しかし、ロジカルだからといってコミュニケーション能力があるわけではない。この世でもっともロジカルな人種は、無言の哲学者と笑わない数学者だ。

自分を論理的だと思う人は、ほんとうに論理的な意思疎通をしているのか、それともただ口が上手いだけなのか、自省してみるといいだろう。

4.論理的思考を身につけても、仕事が早くなるとは限らない。

「ロジカルな人間を集めれば仕事がスピーディーに進む」というのは誤解だ。論理性を重視する人間を集めたら、話はなかなか前に進まず、仕事はむしろ遅くなる。仕事をすばやく進められるのは、同僚がロジカルなのではなく、ただ、あなたと気が合うだけだ。

論理性を重視する人間は、たとえば言葉の定義にこだわる。「○○という施策を打てばおいしい状況になりますね」と言われたら、「おいしい状況って、どういう状況ですか?」と考えてしまう。売上げが伸びるのか、利益が伸びるのか、それとも時間的なメリットがあるのか。定義を詰めないと話が進まない。

定性的で主観的な評価は、定量的で一般的な評価に変えなければ気が済まない。「この広告はイマイチですよね」と同意を求められた時に、「いつのどの広告に比べて、どこがどれぐらいイマイチですか?」と考えてしまう。たとえ、自分自身もイマイチだと感じていたとしてもだ。

なぜ定量化・一般化を求めるのかといえば、論理的な人間は自分を信用していないからだ。自分の「感性」よりも、論理を信じているからだ。「この広告はイマイチですね」という意見が全会一致だとしても、会議室のメンバーにとってイマイチなのか、顧客にとってイマイチなのか、多数決では区別できない。

論理的な厳密さを求めれば、会議は遅々として進まなくなる。作業は正確になるかもしれないが、どこまでも遅くなる。そして時間という最も重要なリソースを失ってしまう。論理的な人間を集めれば仕事が早く終わるというのは幻想だ。

論理性は、意思決定の「正確さ」「緻密さ」を左右するものであって、「速さ」にはあまり効果がない。正確で緻密な判断は欠かせないが、そのためにいつまでも時間を費やしていいわけではない。

「論理的な人を集めれば仕事が早く終わる」と信じている人は、結局のところ「論理的であること」と「気を遣わないこと」を履き違えているだけだろう。気を遣わずにズバズバと意見交換できる間柄なら、たしかに仕事は早い。仕事の早い仲間に恵まれたら、自分たちがほんとうに論理的なのか、それともただ気が合うだけなのか、自省してみるといいだろう。

論理的であるとは、遠慮がないという意味ではない。ものごとを単純化して考える方法でもない。論理的思考とコミュニケーション能力は違うし、ロジカルな人を集めても仕事が早く進むとは限らない。論理的思考は、万能な魔法の杖ではない。

たとえば仕事が遅い人には「あなたは仕事が遅い」と指摘するべきだし、プレゼンが下手な人には「あなたはプレゼンが下手だ」と指摘すべきだ。「あなたは論理的思考が足りない」と指摘するのは、やめておいたほうがいいだろう。プレゼンにはプレゼンの技術がある。交渉には交渉の技術がある。それらを無視して論理的思考を磨こうとするのは、ただ遠回りしているだけだ。

論理的思考を身につけなくていいと言いたいわけではない。

論理的思考は万能ではないが、有用だ。

むしろ、できないことがたくさんあると理解したうえで、ほんとうの論理性を磨くべきだと私は思う。