私は2010年4月から翌年3月にかけて、劉暁波氏もかつて在籍していたコロンビア大学に籍を置きながら、中国の亡命活動家を取材していました。
そして帰国後の翌年末に『中国民主化・民族運動の現在:海外諸団体の動向』(集広舎)を上梓しました。
ニューヨークでは、劉氏と同じく1989年の天安門事件に連座するなどして獄につながれた経験を有する多数の活動家に会いました。
そのなかには李克強首相と北京大学の同窓であった王軍濤氏もいました。
また有名な民主派の雑誌『北京之春』の編集長であった胡平氏もいました。
劉氏と亡命活動家の共通点と相違点
劉氏と彼らは、非暴力的手段によって民主化を目指すという点では共通しています。
これは中国の政治史の上では非常に画期的なことです。
孫文も毛沢東もかつて民権主義や新民主主義などを唱えて、民主主義の擁護者として振舞いながらも、暴力的手段に依拠していました。
そのために両者の革命によって成立した国家体制(中華民国と中華人民共和国)は、いずれも独裁的なものになりました。
劉氏も彼らもともに、民主主義という目標を実現するためには、その手段も非暴力的=民主主義的でなければならないと考えています。
その点では「私に敵はいない」という主張に見られるように、劉氏が最も徹底していると言われています。
劉氏と彼らの相違点は、劉氏が四度も獄につながれながら、あくまでも中国に留まる選択をしたのに対して、彼らの多くは獄につながれている時に、米国政府の介入の下で、病気療養を名目に出国したということにあります。
実際、彼らが中国に留まれば、釈放後も、当局によって、活動を大幅に制約されただけでなく、平穏な日常生活さえ脅かされたでしょう。
それ故に、彼らにとって、出国は、民主化運動を継続するためのやむを得ない選択でもありました。
彼らは米国などに拠点を移すことで、自由に執筆したり、雑誌を刊行したり、政党を結成したりすることができるようになったのです。
このような諸活動は将来の中国の民主化に当たって、大きな礎になるものと言えるでしょう。
ただし彼らは出国することによって、中国国内の民主化運動に対する影響力を低下させることになります。
一方、劉氏は中国に留まる選択をし、結果的に彼の意に反して中国国内で死去したことにより、民主化運動の殉教者となり、シンボルになったと言えます。
たとえノーベル平和賞を受賞しようとも、4、5年前に出国していれば、彼の死がこれほど世界的な注目を集めることはなかったでしょう。
劉氏の最大の功績:「〇八憲章」
劉氏の民主化運動への最大の功績は、やはり「〇八憲章」の事実上のとりまとめ役になったことでしょう。
同憲章は、民主化の最大公約数的な原則の集大成とも言うべきものです。
中国の民主化運動には、韓国の民主化運動における故金大中氏のようなカリスマ的な指導者が一貫して不在でした。
そのために運動は、自由な活動が保障されている海外においてさえ四分五裂の状態にあります。
極論すれば、一人一党とも言える状態にあるのです。
劉氏はそうした状態を踏まえて、同志とともに2008年に「〇八憲章」への署名運動を起こしました。
劉氏はその際、あえて発起人を置いたり、組織を設けたりしませんでした。
一人一党とも言える賛同者が各々の信条にしたがって、自由に同憲章の内容を解釈することを可能にするためです。
劉氏のこうした配慮が功を奏して、同憲章は中国内外の様々な人々の賛同を得て、国際的に注目を集めることに成功しました。
そして劉氏のノーベル平和賞の受賞にもつながったのです。
劉氏の残した課題
ただ「〇八憲章」にも限界があります。
民主化の最大公約数的な原則にこだわっているためか、連邦制の実現をうたっているものの、チベット族やウイグル族などの少数民族、並びに台湾人の独立の可能性を認める内容にはなっていないのです。
劉氏を含む漢民族の活動家は、民主化さえ実現すれば、少数民族問題や台湾問題は自ずと解決されると考えているふしがあります(劉暁波「和平 最佳選択」『北京之春』2000年6月号)。
これは習近平氏をはじめとする中国共産党の指導者が、経済的な恩恵さえもたらせば、少数民族問題や台湾問題の解決はたやすいと考えているのとパラレルな関係にあると言えるのではないでしょうか。
少数民族問題や台湾問題に真摯に向き合うことが、劉氏の残した課題と言えるでしょう。