LiLiCoさんが、日本人でもスウェーデン人でもない「自分らしさ」を獲得するまで

「40歳ぐらいで初めて、ハーフであることに誇りを持てたんです」
Yuko Kawashima

日本とスウェーデンという二国の文化を持つLiLiCoさん。

母国スウェーデンで「日本でアイドルになりたい」と夢見た少女は、18歳で単身来日。それから、22年間の下積みを経て、バラエティ番組を中心に引っ張りだことなった。

40歳ぐらいで初めて、ハーフであることに誇りを持てたんです。もしかしたら、バラエティのおかげもあるかもしれない」

LiLiCoさんは、自らのアイデンティティーについて、こんなふうに振り返る。日本人でも、スウェーデン人でもない「自分らしさ」を獲得するまでに、どんな葛藤があったのか。話を聞いた。

スウェーデンの少女が夢見た「日本」

 ――LiLiCoさんは、スウェーデンの父と日本の母を持つ、いわゆる“ハーフ”です。スウェーデンで暮らしていた子ども時代は、それをどんなふうに受け止めていましたか?

小さい頃は、自分がハーフであることで差別を受けることはありませんでした。

スウェーデンと日本のハーフってなかなかいないので、珍しい顔つきだったとは思います。ただ、スウェーデンは移民も多いですし、言葉が話せるから意思疎通に困ることもありませんでした。

――では、日本についてはどんな感情を抱いていましたか?

ひとりのスウェーデンの女の子として、日本のスターたちにすごく憧れていました。

当時、14歳ぐらいかな。マドンナやマイケル・ジャクソンが大好きになって、歌手になるという夢を抱いた頃。おばあちゃんが送ってくれた早見優さんや河合奈保子さんのレコード、アイドルの載っている雑誌を見て、「かわいいな、日本でアイドルになりたいな」って思っていました。

10歳のときには、日本に来てもいるんですよ。そのとき「日本って天国だな」って思ったんですよね。

例えば、本物そっくりのおもちゃのオーブン。スウェーデンには可愛いおままごと用オーブンなんてないし、レベルの高さにおののいたんです。テレビを観ていても、チャンネルもいっぱいあるし、みんなよくしゃべるし、なんだか活気があって面白そうに見えた。

おばあちゃんが送ってくれた雑誌の付録も衝撃でした。書いてある通りに紙を切って組み立てると貯金箱ができて、しかも輪ゴムを足すとパーツが動いたりして。そんなものスウェーデンにはなかったから、「日本ってなんてすごいんだ」って。

「LiLiCoは日本人になりすぎてつまらない」

Yuko Kawashima

――そして、18歳で単身来日。1年ほどして、LiLiCoさんは晴れて静岡県浜松市にある芸能事務所に入り、現地で歌手活動を始めます。その頃は、ご自身のアイデンティティについてはどう考えていましたか?

あの頃は、必死で“日本人になろう”としていました。日本の芸能界で成功するためには、日本人に合わせなきゃいけないと思っていたから。

おばあちゃんからは「日本の芸能界で成功するには、日本語がペラペラにならなくちゃいけない」と聞いていたし、そのときのマネージャーも「おまえは背が高いから、誰より頭を下げないといけない」と言っていました。

だから、日本語は一生懸命勉強したし、歌もいっぱい覚えて、最後にはなぜか髪の毛も黒く染めて(苦笑)。

それがテレビにまったく出られず、スナックや健康ランドの舞台で歌を歌っていた時代です。 

――その約10年後、2001年には情報番組『王様のブランチ』にレギュラー出演するようになりますね。

そう。そして、テレビ業界に入ってすぐ、言われたんですよ。「LiLiCoは日本人になりすぎてつまらない」って。その日は、震えながら帰りましたね。 

「私、今まで何をしてきたんだ……」って。今まで言われてきたことと、まったく逆のことを突きつけられた。あの日の感情は、一生忘れないと思う。

要するに、「自分」がなかったっていうこと。

それから悩みましたよ。「私って何者なんだろう」って。日本人として完璧に振る舞えるわけじゃない。かといって、スウェーデンを出て10年以上経っているから、スウェーデン人という感覚でもない。「ただ自分のままでいる」ことが精一杯でした。

――「王様のブランチ」で担当しているのは、日本語で映画を紹介するコーナーです。きっと言葉の面でもご苦労されましたよね。

母国語じゃない言葉で何かを紹介するって、すごく難しいことですから、精神的にすごく疲れましたね。初めの2年ぐらいは、何も記憶がないぐらい。

「もうやめちゃおうかな」と初めて思ったのは、この時期です。

お母さんも精神的にかなり参っていたから、「神様がスウェーデンに戻って親の面倒を見ろと言っているのかな」って。今考えても怖いけど、一瞬だけ、日本にも芸能界にも何の未練もなくなっていたんですよね。

でも、事務所の社長とご飯を食べながら、自分自身の今までを振り返ったとき、ハッと気づいたんです。「私は何でここに来たんだ。日本の芸能界で有名になるために、おばあちゃんにお願いをして来日したのに、売れてもいないのに諦めるのかよ」って。

その席で社長が「日本語がだいぶ話せるようになったし、そろそろバラエティ番組をやってみる?」って言ってくれたんです。それが、転機になりました。

震災後、バラエティ番組で見せた姿に被災地から大反響

Yuko Kawashima

――そして、バラエティ番組に本格進出するのですね。きっかけは何だったのでしょう?

2011年5月に出たNHKの『スタジオパークからこんにちは!』です。

震災直後で、テレビはまだまだ自粛ムード。みんながグレーやベージュ、黒の服を着ているなか、私はオレンジのミニスカドレスで、いつもと変わらない調子で出演したんです。

トークでは、下積み時代に5年間ホームレス生活を送っていたエピソードを話しました。

そうしたら、いつもの何百倍と言ってもいいほどのメールとFAXが届いたんだって。驚いたことに、ほとんどが被災地からだったんですよ。

「私たちも動かなきゃだめだ」「元気をもらいました」って。

一番感動したのは、94歳のおばあちゃんからの筆で書いたFAX。そこには「この子は日本人が失いつつあるものを持ってる」と。ほかにも、「寝ていた猫が起きて一緒に見ています」と書いてあるFAXが来たりして、笑っちゃった。 

――日本人としてでも、スウェーデン人としてでもなく、LiLiCoさんの自分らしい姿が受け入れられた瞬間、という気がします。

NHKに届いたメールやFAXをすべて読んで、「ああ、よかった」と思いました。

みんなが自粛しているときにいつも通りやるのは、正直、怖かった。でもその反響を知って、その後は一切自粛するのをやめたんです。

次のきっかけが『しゃべくり007』で、収録の翌日、仕事が10倍に増えたんだって。放送作家が別の番組にも推薦してくれたみたいで、マネージャーが「電話が鳴りっぱなしで、私、トイレにも行けないんだから!」って怒ってました(笑)。 

――LiLiCoさんが、自らのアイデンティティーを受け入れられたのはいつ頃ですか?

40歳ぐらいで初めて、ハーフであることに誇りを持てたんです。もしかしたら、バラエティのおかげもあるかもしれない。

芸能界に入った頃に比べると、ハーフに対する日本での意識ってすごく変わりました。例えば、ハーフモデルって昔は“ハンガー”のような存在だったけど、今は憧れの対象ですよね。「長谷川潤が着てるからこの洋服がほしい」なんて、昔はなかった。

テレビでも、一時期「ハーフ枠」が流行りましたよね。ただ、そこに入らなかったのが、私のすっごく頭のいいところ(笑)! 

そのときに売れたハーフの人たちって、モデル上がりで若くてきれいな人が多かったんですよ。そこにあえて入らず、バラエティでいじられるところにたどりついた自分ってすごいなって。

――それまでは、どう感じていたのでしょう?

ただただめんどくさいな、って。日本人の血が入っていて、これだけ長く働いているのに、数年に一度は就労ビザを取らなきゃいけないし。

住むだけなら、スウェーデンの方が全然楽。道を歩いていて、おじいさんに「クソ外人」とかって言われたりすることは、今の時代でもあるもんね。

でも、面白いですよ。スウェーデンと日本って非常に珍しい混ざり方だから、考え方が全然違う。それが、すっごく面白いんですよ。

例えば、「クソ外人」と言ってきたおじいさん。その背景には、日本が島国であり、欧米との戦争で負けたりもしたという歴史があったのかもしれない。広島の資料館に行ったとき、おじいさんおばあさんが、外国人に対してよくない気持ちになってしまうことが理解できたんですよ。

人を理解しようとするパワーって大事。映画の登場人物に「そんな変な人いないよ」って言うが人いるけど、自分から見て変な人っていっぱいいるんですよ。否定しちゃいけないの。

※続編は近日中に掲載予定です。

(取材・文:有馬ゆえ、編集:笹川かおり)