1945年3月10日の深夜、東京の下町を300機以上のB29爆撃機が襲いました。「東京大空襲」です。その夜、10万人以上が命を落としたとされています。当時6歳だった私も、体調を崩して臥せっていた母と二人で、下町の自宅にいました。空襲警報とともに、私は母を連れ、背中に当座の食糧を背負って外に飛び出しました。
爆弾は、木造建築の多い日本の家屋を効果的に焼き払うことを目的とした焼夷弾でした。ガソリンなどの発火性の薬剤を装填した爆弾です。あっという間に、あたりは火の海になりました。焼夷弾は、建物だけでなく人間をも燃やします。まさに地獄のような光景でした。
そんな中、私は母の手を引いて、安全な場所を求めてさまよいました。途中、とうとう力尽きた母が言いました。「私はいいから、一人で逃げなさい。一人になっても強く生きなさい」。幸い、私と母は、見知らぬ人の助けで、命をとりとめることができましたが、このときの母の言葉は、いまも私の心の中で響き続けています。
「生きるとは、強く生きるとは、そして生きる意味とは何か」という問いは、私にとっての生涯のテーマとなりました。それは私がハンセン病の問題に向き合うときに、いつも考えていることでもあります。
1975年、私は父、笹川良一に同行し、日本財団が韓国に設立したハンセン病病院の開所式に参加しました。それまでにも父とともに、ほかの療養所を訪れたことはありましたが、私自身が施設の中に入るのはそれが初めての経験でした。そこで私は、私の人生を変えるほどの大きな衝撃を受けたのです。
患者たちはまるで蝋人形のようでした。まったく表情がありません。そして病院にはハンセン病独特の膿の匂いが漂っていました。そんな中、父は平然と患者たちの膿の染み出した身体に触れ、抱きしめて声をかけています。私は近寄ることすらできず、遠くから呆然と患者たちの表情を見ているだけでした。
父に対してもほとんど何の反応も示さない患者たちは、それでも生きているのです。ハンセン病は死病ではありません。確かにその患者たちは、「生き続ける」ことはできます。しかし、彼らにとって、「生きる」ことと「強く生きる」ことの間には大きな断絶があります。私はあらためて、死を覚悟した母からのメッセージを思い起こしました。そして、このときから私にとってハンセン病は、生涯を通じての大きなテーマとなったのです。
ある知人に、ハンセン病患者とその置かれている状況について話したとき、次のように問われました。「彼らは、何のために生きているのでしょうか」。残酷な問いかもしれませんが、多くの人が心に抱く問いかけでもあります。しかし、実際に、発症とともに生きる目的を失い、自ら死を選んだ人も少なくありません。日本をはじめとする各地のハンセン病の施設には、断崖や大木など、「自殺の名所」と呼ばれる場所があります。病いを宣告され、社会と隔絶して生きることを強いられた人々がまず考えたのは、「どう生きるか」ではなく、「どう死ぬか」だったのです。ハンセン病は、生きることの意味を剥ぎ取ってしまう病気でもあったのです。