沖縄戦で歩兵大隊を率いた伊東孝一さん(97)=横浜市金沢区=が戦後70年間、誰にも見せずに「封印」していたものがある。戦死した部下の遺族から受け取った手紙だ。
いずれも、伊東さんが部下の「最期」を知らせた手紙への返事で、その数は356通にのぼる。
「手紙は墓場まで持っていく」。伊東さんはそう誓ったはずだった。ところが2016年、心境に変化が起き、遺族に渡すことを決めた。
戦争の記憶と、戦後ずっと抱えてきた苦悩。伊東さんは今、何を思うのか。
「私は皆様の大事な親御さんを戦死させた責任者の一人です」。12月10日。かすれた声で、伊東さんは頭を下げた。テーブルの向こうには、沖縄戦で亡くなった兵士の遺族3人が座っていた。兵士らはいずれも伊東さんの部下だった。
伊東さんはかつて陸軍歩兵第32連隊の第1大隊長だった。連隊は当初、満州に駐屯していたが、1944年夏に沖縄へ転戦。翌年、上陸してきたアメリカ軍と激突した。
友軍が次々と撃破される中、伊東さん率いる第1大隊は善戦。昭和天皇が日本の降伏を国民に伝えた8月15日以降も壕にこもって抵抗。武装解除したのは29日になってからだった。
第1大隊に所属していた兵士は約800人だったが、うち約700人が戦死した。
「部下たちの死を一刻も早く遺族に伝えたい」。そう思った伊東さんは、送り先が分かった約500人に手紙を書いた。部下の形見代わりに、沖縄から持ち帰ったサンゴのかけらを同封した。
伊東さんも、遺族から返事を受け取った。その数、356通にのぼった。
伊東さんのもとを訪れた遺族の一人、松倉紀昭さん(80)=北海道夕張市=はこの夏、71年前に母が伊東さんに送った手紙を譲り受けた。手紙にはこんなことが書いてあった。
赤裸々に申し上げますなら、本当は後を追いたい心で一杯なのでございます。すべてを死と共に葬り去ったなら、どんなに幸福かしれません。されど、残されし3人のいとし子を思うとき、それは許されないことです。激戦に散った主人の心、きっときっと、この子たちに残されていることと存じます。(抜粋)
伊東さんは涙ぐみながらも、居心地悪そうにこう言った。
「今から本当のことを話しますがね、皆さんが思っているほど、一途に部下を思っていたわけではないんです。私は本来、軍人です。戦をすることが本来の目的であって。それに集中してやったわけです。そして、終わってみたら、部下がみんな亡くなっていて。自分は恥ずかしいことながら、生き残ってしまって。私が手紙を出した根本の理由は、別にあるんです。ご遺族のことを思わないわけではないですが、もう一つ理由がありまして」
伊東さんはそう言って、手書きの文章のコピーを遺族らに配り始めた。
コピーには戦争に対する伊東さんの考えや、戦死した部下、その遺族たちに対する思いが記載されていた。
思うに太平洋戦争は無謀にして且つ実に愚かな戦争であった。にも拘らず実際に戦闘をした我らが大隊の将兵の戦い振りは実に傑出したもので、誇るに足ると確信します。この事が根底にあって、御遺族に無駄死にでなかったことをお伝えするのが責務と感じていた。
終戦と共に軍は解隊させられ、国家として戦死すら伝達する組織を失っていた。御遺族を思えば一時も早く立派な戦死であったことを伝えるのが、指揮官であった者の責務との思いが御遺族への手紙となった。
遺族からの手紙についても触れている。
御遺族からの手紙は私の胸に辛く響くものであったが、私の慰霊の拠として永く大切に保存して、私の葬儀の際に共に火葬させて頂く積りであった。
戦争についてはこう綴った。
本質的に考えるに戦争はしてはならぬものであるが、私は戦後迄は本質論を考えたことも無かった。
だが、今でも自衛の為の戦いは必要であると思う。
かつて自衛隊幹部候補生らに渡したメッセージも添えられていた。
知勇を以て専守に徹す
世界の軍備を兵器進歩の側面からのみ見ると、原爆を撃ち合い得る時代となった。だが、その結果を思うと慄然となる。最早、大戦など出来ない。大戦には勝者も敗者もない。戦を始めた者は人類の敵だ。従って専守に徹し自ら戦を仕掛けてはならない。
攻撃は最大の防御とも言われているのに、敢えて先制攻撃を封じるのが専守である。それ故に専守は生半可な気持ちでは成り立ち難い。英知と大勇を以て、多くの困難を克服して、堅固不抜の専守防衛の平和な国を目指そう。
太平洋戦争についてはこんな見解を持っている。
私の戦術眼を以てすれば、開戦前より無謀であると思っていた。
太平洋戦争を愚かなものか、止むに止まれぬものかを折りにふれアンケートを採っている。陸士同期二十名に対するものは両論に分かれ10:10であった。
遺骨収集の学生十名に対するものは4:6であった。学生の中には私が旧軍人なるが故に遠慮して止むに止まれぬに投じたものも居たようだ。
この十月に拙宅を訪れた自衛官(小・中尉相当)の五名は3:2であった。
以上を観察するに日本人はまだまだ反省が足りない。軍事をゲーム位に思っている。
私が思うに日露戦争の勝利に酔って、軍備の充実を怠り、観念的に日本軍は強いと、陸軍上層部のお偉い方は思っていた。その誤った判断の下に太平洋戦争に突入した。
私は陸士本科の在籍中に日本軍の弱い事を観破して、この弱い軍を以て強い相手と如何に戦うかを研究した。勿論戦わないのが最善である。それらの根源は真実にある。
戦闘について
国家が戦争を始めたからには、戦闘部隊は全力を挙げて戦うしかない。それが譬え愚かな戦争であっても......
文章を読み終えた後、伊東さんは最後にこう語った。
「兵士たちは一生懸命戦った。それを誇りに思いたいという気持ちから遺族に手紙を書いた。でないと、とてもじゃないが手紙を書く勇気がありません。ただ兵隊を殺したんでは。自分なりに誇りがあったからこそ手紙が書けたんだということをご理解ください。異論をお持ちになる方も多いかもしれないけど、皆さんに誇りに持っていただきたいんです。先祖の方をね」
伊藤さんは部下の遺族から受け取った手紙を「墓場まで持っていく」つもりだった。それが今になって遺族に戻すことになったのは、沖縄で長年、遺骨収集をしてきた人たちとの出会いがきっかけだった。
青森県の浜田哲二さん(55)夫妻。学生たちと遺骨収集のボランティアをするかたわら、見つかった遺品を遺族に届ける活動をしている。
ある時、兵士が身につけていた認識票が大量に見つかり、持ち主の手がかりを求めて伊東さんを訪ねた。2016年3月のことだ。
浜田さんは、伊東さんが自らの手記で、部下の死を知らせるため遺族に手紙を送ったと書いていたのが気になった。「遺族からも返事があったはず」。そう確信した浜田さんが問いただしたところ、ダンボールいっぱいにつまった手紙を伊東さんが出してきた。
沖縄戦で亡くなった人たちは、遺骨はおろか遺品も遺族たちに届けられないことが多い。「戦没者について書かれた手紙には、家族らが当時抱いた思いもいっぱい詰まっている。せめて手紙を遺族に渡せないか」。浜田さんは、手紙を遺族に譲ってはどうかと伊東さんに提案した。
伊東さんは最初、迷った。だが、浜田さんの真摯な態度に心打たれ、「この人なら手紙を正しく活かしてくれる」と了承した。
浜田さんは学生たちと協力し、2017年5月から手紙の差出人である戦死者の遺族を探した。その結果、30人ほどの所在が判明。これまでに、北海道や長野にいる22人に渡し終えた。
沖縄で戦死した兵士は北海道出身者が多く、浜田さんたちが手紙を持参した先もほとんどが北海道だ。
11月3日。浜田さん夫妻と女子大学生4人が、札幌市中央区に住む北山みどりさん(92)のもとを訪ねた。北山さんの兄、吉岡力さんは伊東さんの部下として沖縄で戦い、亡くなった。
北山さんの父が伊東さんに返した手紙を、東洋英和女子大3年の後藤麻莉亜(まりあ)さん(21)が読み上げた。
戦破れて山河あり。敗戦によって思想的根拠を失い、その上、長男を失い、言い表し得ぬ心情も今は宗教的諦観を得て、家族一同相助け、日本再建のため、増産の鍬を振るっております。
隊長殿にはまだまだお若く、ゆいのお体、一層のご自愛、ご保養の上、今は部下の数々の力闘の真相をお伝えくだされたく遺族一員としての念願であります。
北山さんは目を閉じてうつむいたまま、身じろぎもせず聞き続けた。後藤さんは目に涙を浮かべていた。
続けて、伊東さんのメッセージも朗読した。
私自身が出向きまして直接ご報告できないこと、お詫び申し上げます。齢も95歳を超え、目が見えなくなりつつあり、足元もおぼつかなくなっています。何卒お許し願います。
沖縄で戦没した私の部下たちは、あの過酷で厳しい戦局の中を、どの日本軍兵士よりも奮闘し、立派に戦い抜きました。戦後恥を忍んで私が生き残ったのは、そうした部下たちの働きを記録し、世に伝えるためであります。
そして、二度と無謀な戦争を引き起こさない国家を再興するために、及ばずながら尽力させていただいたつもりです。どうぞご理解ください。
「ありがとうございます。なんて言えばいいか、色んな方にお世話になって。結局は母も長いこと悲しんでおりました」。北山さんはそう言って、かつての記憶を語り始めた。
終戦からしばらくたったある日。母が畑仕事をしていると、役場の人が白木の箱を持ってきた。コトコトと音が鳴った。「これが遺骨の代わりです。名誉の戦死でした」。役場の職員から言われ、母は蓋を開けた。中に入っていたのは、5つほどの石ころだった。母はその場で泣き崩れた。
「私はそのころ、20歳ぐらいでしたけどね。『何が名誉だ』と思いました」。北山さんはやるせない表情を浮かべた。
北山さん宅を後にした浜田さん夫妻と学生らは、沖縄戦の戦没者の慰霊碑がある札幌護国神社(札幌市中央区)に向かった。
浜田さんたちは、戦没者名が刻まれた石碑から吉岡さんらの名前を見つけ、黙祷を捧げた。
後藤さんは「学校の教科書とかで、知識としての戦争を知ったつもりになっていた。でも、ご遺族と実際に会って、自分が知った気になっていたことが、遺族の方にも戦争で亡くなった方にも申し訳ないと思った」と話した。
中央大3年の篠原美優さん(20)はこんな感想を口にした。「北山さんがお兄さんが戦死した状況を聞いているとき、涙をにじませていた姿が印象的だった」
東洋英和女子大3年の花岡加奈子さん(20)は「正直、戦争に関する意識が高いわけではなかったんです。そんな私が遺族の方とお話なんかしていいんだろうかと迷いがありましたが、でも来てみてよかった」と話した。
神奈川大4年の根本里美さん(22)も「戦死された方もご遺族もみんな、戦争によって人生を変えられてしまったんだなと感じました。私にも兄がいます。北山さんと自分を重ねながら話を聞きました」と語った。
伊東さんに託された手紙を遺族に届ける、浜田さん夫妻と学生らの「旅」はまだ続く。
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