李登輝氏が強調した日本と台湾の「絆」とは? 台湾の民主化進めた元総統が97歳で死去

日本統治下の台湾で育ち、新渡戸稲造の影響で農業経済学を究めた後に政界入り。総統辞任後は来日9回。
衆院議員会館で講演する台湾の李登輝元総統(2015年7月撮影)
衆院議員会館で講演する台湾の李登輝元総統(2015年7月撮影)
AFP時事

「台湾民主化の父」と呼ばれる台湾の元総統、李登輝氏が7月30日、台北市内で亡くなった。97歳だった。フォーカス台湾などが報じた。

朝日新聞デジタルによると、死因は多臓器不全。2月に飲み物が気管に入り、台北市内の病院に緊急入院。肺炎となり治療を受けていたという。

李氏は、日本統治下の台湾で育ち、京都の大学に進学。終戦後も日本との関係が深かった。李氏と日本の関わりを追ってみよう。

■新渡戸稲造の影響で、農業経済学を究めた後に政界入り

李氏が2015年に書いた『新・台湾の主張』(PHP新書)によると、李氏は日本統治時代の1923年、台北に近い三芝庄(さんししょう、現在の新北市三芝区)で生まれた。当時は岩里政男(いわさと・まさお)という日本名を名乗っていたという。

台湾の製糖業に貢献した新渡戸稲造に心酔した影響で、農業経済学を究めたいと思うようになる。京都帝国大学(現在の京都大学)農学部に進学中、志願して陸軍に入隊。 終戦で台湾に戻り、台湾大学卒業後に研究職に就いた。アメリカのコーネル大学で農業経済学の博士号を取得した。

フォーカス台湾などによると、農業問題の専門家として当時の国民党政権に重用される中で、国民党に入党。無任所大臣や台北市長などを歴任。副総統だった1988年、蒋経国総統の死去を受けて総統に就任した。96年には初の総統直接選挙を実現させるなど、台湾の民主化を根付かせたという。

■李登輝氏が強調した日本と台湾の「絆」とは?

ZAKZAKによると、李氏は総統退任以降、計9回にわたり来日。戦死した兄を弔うために靖国神社に参拝したほか、東日本大震災の被災地に足を運ぶなどしていた。

そんな李氏は前出の 『新・台湾の主張』の中で、李氏は台湾が「世界一の親日国」とした上で、日本と台湾の間の「絆」が東日本大震災で再確認されたと書いていた。

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日本の敗戦によって台湾が辿ることになった苦難を思えば、日本人の台湾に対する態度は冷淡であったというほかない。私にも戦後の日本人に対して「倫理観」のことを問いたい気分はある。とくに日本統治を経験した日本語世代には、複雑なわだかまりを抱えている者がいるのも確かである。

状況に変化が生まれたのは、2011年の東日本大震災時、台湾が多額の義捐金を日本に寄せたことが大きい。台湾人が送った義捐金(義援金)は200億円以上とされ、世界一といわれる。また、さまざまな有志の団体が「日本加油(日本がんばれ)」という声援を送り、支援活動を行なった。「隣国台湾」からのこうしたサポートは、日本人のあいだに鮮烈な印象を残した。日本が歴史に裏打ちされた台湾との「絆」に再び目覚めるきっかけを与えたのである。

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