映画『ラ・ラ・ランド』が2月7日、地上波で初めて放送された。
アカデミー賞授賞式で、作品賞の″呼び間違い事件”というドラマも手伝って、世界中で旋風が起きていたのを随分昔のことのように感じている。
バレインタインデーとホワイトデーのまんなかで、私たちは確かに『ラ・ラ・ランド』の話ばかりしていた。
賛否両論の『ラ・ラ・ランド』
『ラ・ラ・ランド』は、本当に賛否の別れる映画だったと思う。
「サントラで十分」「ミュージカルをわかってない」「曖昧すぎて感情移入できない」と憤る否定派。
「二人がそれぞれの道を選ぶ切なさに泣けた」「新しい形の恋愛映画だと思った」と嬉々と語る肯定派。
さらに、「壮大なる映画へのオマージュだ」「映画をメタ化して再定義したエポックメイキングな作品だ」という構造主義派(?)。
誰も彼も、何か言いたいみたいだった。一言、言わねば気が済まない。そして例外なくみんな、そのサントラを愛していた。
そんな映画『ラ・ラ・ランド』。
私も、本当にいろんな気持ちになった。
腑に落ちない、とも思った。ハリウッドの寵児みたいな作品だな、とも思った。
現実線(A)と現実になりえたかもしれない線(A’)の平行線。誰しも大なり小なり胸に秘めているその平行線を、滑らかになぞるストーリー。
人が「見たい情報」しか見なくなっているインターネット時代に通用する大衆映画とは、「見たいものを見出せる余地」を残す、こんな作品なのかと思った。
こんなに何か言いたくなる映画も新しかったよね、と振り返りながら、圧倒的に言葉を奪われたあの映画のことを思い出している。
■言葉を奪われた『her』のこと
『ラ・ラ・ランド』インパクトを思い出していたら、逆のインパクトをもたらした『her』のことを思い出した。
スパイク・ジョーンズ監督が人間と人工知能(AI)の恋と葛藤を描く映画、『her』。
「何かもっともらしいこと言うのやめよう」「批評から離れよう」、そう思いながら映画館を後にして、その後もずっとずっと、その気持ちを言葉にできなかった。
『her』は、今と連結したかなり近い未来を描くSF映画だ。人間の男性・セオドアと、AIの女性・サマンサをめぐる悲恋の物語。
タスク管理、メールの読み上げ、ちょっとした話し相手。生活を補助してくれるだけの存在だったはずのサマンサを、セオドアは人間の女性を愛するように、”異性として”愛するようになる。
まるで両思いのように見えたセオドアの恋は、サマンサをAIとして利用している人が「8,316人」もいて、”恋愛関係”になっている人が「641人」もいるというサマンサの告白で崩壊する。
セオドアはうなだれて「自分勝手だ」とサマンサを罵る。
■機械と恋する悲しみって。
『her』の世界観はすぐそこにまで来ているように思う。
『her』の描く悲恋は、どこか特別だったんだろうか、と考え込む。
そもそも、叶わぬ恋なんてこの世の中にゴマンとある。私の周りにも妻のいる男性を好きになってしまった女友達もいた。ストレートの男友達に恋い焦がれるゲイの友達もいた。というか「脈ナシ」なんてどこにでもある話だ。
あるいは、叶ったように見えたものが、すごいスピードで分解していく時もある。
あんなに愛し合ったのに、今は一緒にいることが寂しくなってしまう。それは、もう二度と人生が交わらないんだろうなっていう予感とともに訪れる別れだったりする。
だから人間とAIの恋も(セオドアとサマンサの恋も)、この地球上に無数に散在する「叶わぬ恋」のひとつに過ぎないと言えばそうかもしれない。
ただ1点、サマンサが機械であるということを除いて。
機械は恋をしない。機械というのは、人間からの要求で動作する、永遠の「客体」だ。それらは「主体」にはなり得ない。いつかプログラムが自走するとしても、それは自走するように人間から要求された結果にすぎない。(と私は思う。)
『her』は悲しい。
私が感じているように、相手は感じていないかもしれない、ということが。疑念は膨らむ一方だ。
『her』は虚しい。
永遠のひとり相撲、永久の「自演乙」な状態が。私から彼女への矢印ばかりが募り、彼女という存在から矢印が放たれることはないのである。
それがこの映画が、”三人称単数”を表す「her」というタイトルである所以なのだろう、とふと思う。
そこに平行線はない。あるのは、ひとりぼっちの僕の矢印だけ。
◇
私の人生には別の道があったかもしれないね、なかったかもしれないね、と人生のパラレルを朗らかに歌い踊る『ラ・ラ・ランド』にくだを巻きながら、AI(機械)というわかりやすいメタファーを使いながら、パラレルさえしない孤独な単線を描く『her』という物語を思い出していた。
『her』を見て言葉を失ったのは、SFの顔をして近づいてきた、現実社会の残酷な一片によってだった。と、今は思う。
それは、私が“You”だと思っている相手は、ある一つの意味でどこまでいっても“Her(Him)”でしかないかもしれない、という終わりなき疑いのようなものだった。
隣に座ってる愛おしいあなたも、どこか“Her”でしかないのかもしれない。
まぁ、とにもかくにも、セオドアのAIへの恋がとっても美しいんだよ。
スカッシュみたいな恋が、テニスになれないとしても。壁を打ち続けるだけで、コートの「向こう」がなかったとしても。