地震後の日々を過ごしている全ての人に伝えたい。「誰もがヒーローです」と。【熊本地震】

この1年、多くの人の話を聞いた。それぞれの立場で精いっぱい大切な人を、あるいは初めて会う人を支えた様子がうかがえた。

熊本県内の各地に甚大な被害を与えた熊本地震から1年。被災した人たちは、それぞれ違う歩幅で復旧・復興へ向けた歩みを進めている。その歩みを近くで見つめてきた地元紙の記者5人が、その時々の思いをつづったコラムを寄稿する。今回は清島理紗記者の記事を紹介する。

(熊本日日新聞社 原大祐)

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【2016年5月12日 小さな声 逃さない】

「足の調子はどうですか」。熊本地震の影響で、多くの人が身を寄せる益城町の避難所。災害派遣福祉チーム(DCAT)の作業療法士、國部ひろみさん(32)=鹿児島県=が90代女性に話し掛けた。女性は膝が悪く、床からの立ち上がりが心配されていた。段ボールベッドが配られたが、女性は「腰が痛くて使っていない」と言う。

DCATは、介護福祉士や看護師などの専門職でつくるチーム。今回は、県内外から派遣された約20人が被災した施設や避難所で活動している。入浴介助や福祉用具の相談などに応じるのが主な支援内容だが、取材して感じたのは「小さな声を逃さない」という強い姿勢だ。

國部さんは足の様子を尋ねた後も立ち去らず、表情豊かに会話を続ける。徐々に気持ちがほぐれたのか、女性は避難生活について話し始めた。

一緒に避難している親戚家族は日中、自宅の片付けに追われていること。食事の配給を取りに行けないが、周囲が気配りしてくれること。そして「今後、どこか知らん場所に移って、周りが知らん人ばかりになったらどうしよう」と不安を吐き出した。長い会話で少しすっきりしたのか、女性は最後に「今日はよう話して、よう笑いました」と國部さんの手を握り締めた。

「我慢強い高齢者は、なかなか心配事や要望を口に出さない。丁寧に関係を築いて、初めて本当の気持ちを聞かせてくれるんです」と國部さん。派遣メンバーは数日ごとに代わるが、引き継ぎを綿密に行い、支援する高齢者と関わりを持ち続けることを徹底しているという。

取材者としても、この姿勢を見習いたい。被災状況は個人や地域ごとにさまざまで、状況も変わり続ける。どんなときも、埋もれがちな「小さな声」に寄り添い、伝えたい。

【2016年9月19日 〝当たり前〟に過ごせるように】

「仮設住宅に入居できたのはありがたいんです。でも当たり前の暮らしができないのが、こんなにつらいとは...」。益城町の「テクノ団地」に住む女性が漏らした一言が胸に刺さった。

女性の長女は重度の障害がある。必要な電動車いすを使うスペースは、室内にない。家族が抱きかかえ、家具の間を縫うように移動している。浴室も狭く、ゆっくり湯船に漬かるために週に数日、近くの温泉施設に通う日々だ。

県は7月下旬、室内に段差がなく、車いすでも利用しやすい仮設住宅を同町に建設すると決めた。15日に着工し、11月上旬にも完成予定だ。

しかし、それで問題解決ではない。建設地はバリアフリー住宅のみを集めた団地。女性は「子どもたちは地域に見守られて育っている。なじみのご近所さんが多く住む今の団地を離れたくない」と訴える。

地震直後、障害者が多く避難した熊本学園大の花田昌宣教授は「避難所は地域社会の縮図。障害者も高齢者も受け入れるのは当然のことだ」と話した。

仮設住宅団地も地域の縮図だ。障害者や高齢者の住みやすいものが点在し、溶け込んでいるのが本来の姿ではないか。

県によると、個別タイプのバリアフリー仮設住宅は過去に建設例がなく、熊本が初。画期的な一歩だとは思う。しかし、そこでとどまらないでほしい。

益城町の女性は、ぜいたくは言えないとためらいながらも、「今後、同じ思いをする人がいなくなるように」と、地震関連のシンポジウムで声を上げた。災害は再び起きる可能性がある。あらゆる人が"当たり前"に過ごせる避難生活の在り方を考え、改善する努力を続けるべきだと感じている。=2016年9月19日

※11月、バリアフリー仮設住宅が完成した。入居者や支援者からは「地震直後から整備を進めてほしかった」という声も聞かれた。女性は今も同じ段差のある仮設住宅に住み続けている。

大型仮設団地で行われた追悼行事で黙とうする入居者ら=2017年4月14日午後、熊本県益城町

【2017年3月29日 みんなヒーロー】

「被災者みんながヒーローなんですよ」。精神科医の言葉が心に響いた。熊本地震1年を前に、当時を思い出すと心身が不調になる「記念日(アニバーサリー)反応」について対処法を聞いたときだ。

この医師は地震後、保育士や企業関係者、行政職員らの心のケアに取り組んでいる。「多くの人の努力があって熊本は地震直後の時期を乗り越えた。家族を残して仕事に奔走したことに負い目を感じる人もいるが、その人が仕事に集中できるようにパートナーや親は支え、子どもたちは寂しさを我慢した。誰もがたたえられるべき存在なんだということを、お互い確認してほしい」と話した。

記者も当時を思い出すと不安になる。激震への直接的な恐怖に加え、休校と休園が続く子ども2人にずっとついていてやれなかった罪悪感などがよみがえると、慌てて記憶にふたをしたくなる。しかし、医師の言葉に少し救われた気がした。

この1年、多くの人の話を聞いた。「激しい揺れの中、認知症の妻をすぐに外に連れ出せなかった。『ごめんね、一緒に死ぬかもしれない』と妻を抱いてかばった」という高齢男性。「ダウン症の娘と公民館に避難したが、娘は多くの避難者に混乱してパニックに。不安から座り込もうとする娘を抱きかかえて長時間配給に並んだ」と振り返る50代女性。「大学に避難してきた障害者や高齢者らを、約1週間泊まり込んでケアした。考えるより先に体が動いていた」という熊本学園大生。それぞれの立場で精いっぱい大切な人を、あるいは初めて会う人を支えた様子がうかがえた。

復興は道半ばで、まだ問題はたくさんある。でも、地震後の日々を過ごしている全ての人に伝えたい。「誰もがヒーローです」と。

犠牲者宅跡で手を合わせる住民ら=14日、熊本県益城町

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