物心がついたころ、この世の英語はたった二つしかないと思っていた。
American English とジャングリッシュ。
5歳くらいから公文で英語を習い始めた。今はどうなっているのか知らないが、あの頃、公文の英語の教材にはBobとLucyしかいなかったように記憶している。
幼心に、「英語ができる=アメリカ人のように喋る」ことだと理解して、カタカナ発音の英語=ジャングリッシュは、なんとなくかっこよくないと感じた。CD教材のネイティブの発音の後に従って音読した。
でも、公文に関してはそもそも宿題もいつも先延ばしにしてしまうほど嫌で、早くやめたかった。でも父が「英語だけは」とやめさせてくれず、ダラダラ中学生まで、約10年間続けた。
よほど勉強が嫌いだったのか高校も中退して私の勉強に関しても全く無関心な父が、私に「英語だけは」習わせていたのには理由がある。
アメリカに父の姪がいたからだ。名前は、カニーという。
姪といっても、父とカニーはたった3歳しか違わない。彼女の母である父の姉は、父よりも21歳年上だった。だから父からすると、カニーは父にとって「いとこ」のような感覚なのだろう。
カニーは、血縁関係でいうと私のいとこなのだが、なんせ彼女は30歳以上も年上だから、幼い私とちょっと遊んでくれた「アメリカ人」だと思っていた。極端に言うと。
父の姉、伯母は4歳ごろ、まだ分断されていなかった頃の朝鮮半島から1940年代に日本に渡ってきた。"終戦"後もそのまま日本に残り、東京の朝鮮人が集まって住んでいる地域で妹や弟の世話をしながら貧しい生活をしていた。朝鮮学校にも少し通っていたが、同級生からからかわれたりするなど、良い記憶はないらしい。
何かのきっかけでその後英語を独学し、友人に紹介されたアメリカ人のレイと文通をしているうちに二人は結婚することになったという。レイは相模原の米軍基地に派兵されていた。二人の間にカニーが生まれ3年ほど相模原で過ごした後、伯母はもう日本には戻ってこない覚悟でアメリカに渡ったという。
私が生まれた頃には、伯母とレイはすでに離婚していた。その後も伯母は定年まで米軍基地内施設で仕事をしていた。1990年代には座間や韓国の米軍基地でも働いて、またアメリカに戻った時にはカニーとの関係も悪化していたらしく、みんな別々に住んでいた。
伯母は、家で日本語を教えなかったので、カニーは英語しか喋れない。「英語しか喋れなく」て「見た目も外国人」で「アメリカに住んでる」から、父はカニーのことを「アメリカ人」と形容する。
日本語しか喋れない父は、カニーとのつながりを私に託したかったのだと思う。だから父は、私をほぼアメリカに行かせることのためだけに一生懸命働いた。
それで10代の頃、夏休みの度に私は一人でアメリカに行かされた。初めて一人で行ったのは2006年、小学6年生の時で、それから中高時代もあわせて5回渡米した。
カリフォルニアに住む伯母の家と、ワイオミングに住むカニー夫婦の家でいつも半分ずつ、あわせて一カ月くらいアメリカに滞在した。たいてい途中でホームシックになったので、現地でどう過ごしていたのか、あまり記憶がない。
カニーが自分のルーツに対してこれまでどのように考えてきたのかはわからないけれど、もしアメリカに行かず日本にそのまま住んでたら、カニーは「ハーフ」とか「混血児」とか言われていたかもしれない、と最近ふとよく考えてしまう。
いや、でもカニーは「ハーフ」なのか。お父さんは米兵で、お母さんが「在日朝鮮人」だったとしても。
そしてお母さんがずっと「日本人」として生きてこなければならなかったとしても。
日本にも韓国にも見捨てられて、アメリカでも差別を受けてきた。
日本語と朝鮮語と英語。
国家に所有された3つの言語によって、伯母のたった一つの身体が、心が、どれだけ引き千切られていく思いをしたか想像すると、どうしてもいつも涙が止まらなくなってしまう。
このころ、私をとりまく生活環境も大きく変わった。
小学生の時、東京の朝鮮学校に通っていた私は、中学からは東京にある韓国学校に移った。朝鮮学校に対する日本社会の差別を避けるためだ。
朝鮮学校は在日コリアンが通う民族学校で、先生も生徒も保護者もみんな日本で生まれ育っている。そのため、在日コリアンのコミュニティで使われるKorean language は日本語のイントネーションが強く反映されていて、韓国や北朝鮮で使われているそれとはまったく違う。コミュニティの間では「在日語」と呼ばれているが、私は小学校に入学するや否やこの「在日語」を"母国語"として習得し始めた。
対して、韓国学校は、韓国からのニューカマーが大多数を占める、いわば小さな韓国社会だった。ここで私は、ネイティブが使う"本物"の「韓国語」に怯えてしまった。私が朝鮮学校で使っていた"母国語"とは何なのだろう、と考える暇さえないまま、"普通"の「韓国語」に"直す"のに必死だった。
小学校の間に身につけた「在日語」を、韓国学校では「使ってはいけない」言葉として封じた。同時に、身に沁み込んでいた「在日語」を否定したくない思いも強くて、毎日葛藤していた。
自分の変な「韓国語」がバレないように、且つ「在日語」を否定しない方法はただ一つ、なるべく喋らないこと。
喋るとしても日本語に逃げて自分の優位性を保とうとしていた。だけど、在日である私は自分のことを「日本人」と思ったことはないのに、ここでは充分「日本人」っぽいとされていたし、それを裏付けてしまうかのような、ネイティブの日本語ですら使うことが恥ずかしくなっていった。
韓国学校には、朝鮮学校出身の在日の友達も数人いたけれど、「在日語」を喋ったら馬鹿にされるということは暗黙の了解だったように思う。
私はK-POPなどに興味がなかったし、韓国文化への愛着もあまりなかった。自分がこんなに葛藤しているのに"簡単"に「韓国人」に同化しようとする在日の友人を理解できない日々が長く続いた。また、在日の友人の口から、ちょっと変な韓国語が出てきたり、私の方が「韓国語」っぽく喋ることができた時は、心の中で優越感が芽生えたりもした。
たまにそんな感情を表に出して、友人を傷つけもした。
一方、英語やアメリカに接触する時間が長くなるにつれ、自分の英語にも自信が持てなくなっていた。今思えばやる気がなかったから当たり前なのだが、実際にペラペラ使いこなせるようになったわけでもなく、中学生からいきなりハイレベルな英語の授業になり、学校でもついていくのが大変だった。
韓国学校は英語教育のレベルが高くて、長いこと英語を勉強してきたのに、周りに"できる"子が多すぎて、私はどの言語に対しても劣等感ばかり感じていた。
ある日、英文を音読していたら先生が笑いながら、わたしにこう言った。
「発音が日本語っぽいね」
一瞬止まったが、「だから何ですか」と韓国語で訊き返した。
韓国人だって콩글리시(コングリッシュ=韓国で使われる独自の英語)を使うだろ、と言い返しそうになったけれど、その先生はアメリカ留学経験のある韓国人だった。だから言い返せずに悔しかった。本当はこのときの会話さえも、自分の韓国語の中に日本語っぽい発音が露呈しないか、隠すのに必死だった。
American Englishとジャングリッシュの他に、콩글리시(コングリッシュ)があることも知ったのはこの頃で、私の中で、この世の中の英語が三種類になった。
私は今、東京都内の大学院に通っている。とてもインターナショナルな環境で、授業はほとんど英語で行われる。初めは、国際社会の経験値の低さはおろか、自分の英語の"できなさ"に挫折しかけた。
だが蓋を開けてみると、(周りの大学院生の大半が10~20歳以上年上ということもあるだろうが)誰も英語に注目して馬鹿にする人なんておらず、むしろ優しくサポートしてくれる。さらに、みんな世界中の様々な地域から集まっていて、多種多様な英語があることを知った。英語に劣等感なんて感じる必要ないと、やっと最近身体が理解し始めてきた。
どんな言語も然りである。
日本語も、朝鮮語も、中国語も、その中には必ず複数性があって、どんなイントネーションや発音でも「標準語」と比べられるべきではないと私は思う。そしてまだまだ出会っていない尊重すべき音が私にはたくさんある。
私は、一見何の関係もなさそうに見える「日本」という国で、朝鮮半島の南北の分断を経験した。背後にはいつもアメリカの影があった。私はただ、日本にずっといただけだった。
大きな大きな権力が、互いの利害関係を求めて良くも悪くも動いている。
その中で引き裂かれる個々人の暮らしや感情があることを見落としてはならないと思う。
私はナニジンでもない「在日コリアン3世」だ。
朝鮮半島にルーツを持っていたおかげで得たたくさんの気づきには感謝しているけど、特に自分が在日であることに誇りとか民族心を感じたりはしない。
アメリカに渡った伯母は、4年前に亡くなった。生前の伯母の厳しい顔つきと哀しい背中を思い出すと、なおさら「誇り」という言葉だけでは語れない複雑さがある。
それよりもむしろ、この「在日」という言葉が、現代にまで続く差別の枠組みから解放されてほしいと願う。
そして私も、大切な名前を持った一人の人間として生きるために、早く「在日」というアイデンティティから解放されたい。
だけど、いまだに存在する差別がなかったことにされないよう、私は自分のことを「在日」と言い続ける。
たぶんすべての日本の人や韓国の人が自分のことを「日本人」「韓国人」と名乗る限り、私は自分のことを「在日」と言い続けるだろう。
そしてもっと広い世界へ、訴えかけていきたい。
いつかカニーの想いにも耳を傾けてみたい。そのために私は英語と出会ったのだ。
様々なルーツやバックグラウンドの交差点に立つ人たちは、自分を取り巻く地域の風景や社会のありようを、どう感じているのでしょうか。当事者本人が綴った思いを、紹介していきます。
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