去る4月23日、「朝鮮人追悼碑モチーフの作品、指導で解体撤去」というニュースに接し、群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」内に「朝鮮人犠牲者追悼碑」が建っていること、また、碑の存廃が法廷で争われていることを知った。
碑をモチーフにした作品が撤去されたことそれ自体はもちろん気にかかるが、それと同等に、碑が建てられた理由や、存廃が争われるようになった経緯を知りたいと思った(作品撤去の経緯はBuzzFeed Japan籏智広太記者の記事に詳しい)。
(朝鮮人犠牲者追悼碑)
手始めに、図書館で新聞社のデータベース検索を利用し、「群馬 追悼碑」などの検索ワードで過去の記事を検索してみた(対象の新聞は、データベースが利用できた朝日、毎日、読売の3紙)。
碑は、戦時中に朝鮮半島から徴用され、重労働などで命を落とした韓国・朝鮮人を追悼するためのもので、碑には「記憶 反省 そして友好」と刻まれている。
碑が建立された2004年4月の除幕式を報じた記事からは、県の関係者や韓国から参加した遺族、実際に労働を強いられた当事者らが一堂に会し、過去を見つめ直すとともに、アジアの友好を願う様子が伝わってくる。
以降、毎年碑の前で追悼集会が行われていたが、再び碑が紙面で報じられるようになるのは、碑の建立から10年後の2014年4月。同年1月末に、碑の設置許可の更新期限を迎えるにあたり、碑の設置・管理団体が県に申請した更新許可が保留になっていることを報じた記事だ。
2014年4月25日の朝日新聞では、「許可更新、県が保留」「『政治的利用』批判受け」という見出しで、2012年の集会以降、県に碑の撤去を求める意見が寄せられていること、許可更新の申請を受けて、県が団体に集会の内容について見解を問うたことなどを報じている。
その後も、事態の進展とともに報道が続く。14年6月には、県議会が碑の撤去請願を採択、翌月には県が設置不許可を決め、管理団体に碑の速やかな撤去を求めている。
碑の存続のために団体が県へ提出した回答書や代替案が取り上げられることなく不許可が決まり、不許可決定の撤回を求める請願と1万5千筆にのぼる署名が県議会で採択されることなく今日に至る過程を振り返ると、ある時点から生じた《追悼碑撤去》という流れに乗って、突き進んでいくような印象を受ける。
(公園の少し奥まった場所に建つ追悼碑。隣は財団法人群馬アイバンクによる献眼者への顕彰碑)
冒頭で触れた「追悼碑モチーフの作品撤去」の一件で、今またその存在を報じられている追悼碑だが、碑は今も「群馬の森」にひっそりと建っている。碑の写真は、いずれも5月末に公園を訪れた際に撮影したものだ。
これも過去の新聞記事によれば、そもそも「追悼碑を建てる会」ができたのは1998年。
会の事務局長を務めた猪上輝雄さんらは、98年以前から県内の強制連行や関東大震災後の朝鮮人虐殺事件について調査を行い、県内各地で戦争写真展や平和展を開催するほか、県内の地下軍需工場跡の調査、韓国の平和団体との交流など、長年に渡って活動を続けてきている。
そうした活動は、追悼碑撤去の動きとともに葬り去られかねない歴史を、ギリギリのところで守る防波堤のようにも映る。
家族連れで賑わう休日も、公園の片隅で静かに建っている碑を前にして、自分は過去に、現在に、未来に、どう向き合うかを問われている気がした。
残念ながら、追悼碑をモチーフとした作品は撤去されてしまったが、群馬に根ざして活動する現代美術作家を紹介した展覧会「群馬の美術2017─地域社会における現代美術の居場所」は、碑が建つ「群馬の森」内の群馬県立近代美術館で6/25(日)まで開催中だ。
作品撤去の一件を機に、追悼碑撤去をめぐる問題についても考えていければと思う。