2021年、話題をさらったのが秋篠宮家の長女・眞子さんと小室圭さんの結婚だ。2人が渡米してから1カ月以上が経ったが、「自由」を求めて飛び立ったはずの米国では、今も一部週刊誌による「監視」が続いている。
秋篠宮さまは56歳の誕生日に先立って開いた会見で、「深く人を傷つけるような言葉というのは、これは雑誌であれネットであれ私としてはそういう言葉は許容できるものではありません」と表明。事実と異なる報道を正せるように「一定の基準を作る必要がある」との考えも示した。
皇室に向けられるバッシングの問題は、今後、どう解決していくべきなのか。皇室に関する著書を持ち、この問題を指摘してきた成城大学文芸学部の森暢平教授に聞いた。
「私」の部分まで、隠し撮りするのは問題
―小室圭さんと眞子さんが渡米した今も、国内外のメディアによる私生活暴露が続いています。
英国の大衆紙「デーリー・メール」電子版が、小室さんと眞子さんの私生活を複数回にわたって報じました。英国は王室があるため、日本の皇室にも一定の興味を抱いているのでしょう。一般の人々がスマホのカメラを向ける「スナパラッチ」の心配もあります。ただ、パパラッチの追いかけが長く続くとは思えません。外国での関心は一時的であって、いずれ注目度は下がるでしょう。
一方、日本のメディアの関心はまだ続きそうです。一部の週刊誌は執拗に米国の小室さん夫妻を追いかけています。「二人の結婚に関する記事は売れる」という“小室バブル”が起きて、やれるところまで追ってやろうと考えるメディアが多いのではないでしょうか。「女性セブン」は、二人のニューヨークでの「デート」の様子など写真100枚近くを公開しました。こうした行為が、いつまで続くのかと暗澹たる気持ちになります。
―二人の結婚に関する一連の報道から、皇室のプライバシーや人権とのバランスの取り方が課題になったように思います。
一般の人々と同じように、皇族にも人権はある。しかし、天皇・皇族の人権が憲法上守られるものかどうかは、意見が分かれています。
かつて、憲法学者の間では「天皇・皇族も憲法で人権は守られる」との考えが通説でした。しかし、「皇室は憲法で人権が守られるべき『国民』の範疇には入らない」との考えが、憲法学では有力になりつつあります。皇室は「身分制の飛び地」と考え、国民と同じ人権は保証されないと整理した方が憲法理解においては明確だからです。
ただ、この説は、現実の皇室を知らなすぎると私は思います。この説では、眞子さんの置かれた状況に対し、憲法は無力だということになってしまう。
終戦後から昭和30年代までの宮家は現在よりずっと自由でした。しかし、日本が豊かになるにつれ、皇族に対する財政ケアは手厚くなり、公的位置づけが重くなっています。そうした背景があり、皇族の立場は「公」のものであって、「私」があってはならないと極端に考える人も多くなっています。
日本社会に目を向けると、たとえば、学校の名簿や連絡網が配布できなくなるなど、人々のプライバシー領域は膨らんでいます。人々は自分たちの私的空間を拡大させているのに、皇族には逆に私的なことを抑圧するように求めている。そこに齟齬が生じている。
憲法上の人権はのぞいたとしても、自然権としての人権はあるはずです。一部の週刊誌はこれまでも、眞子さんの通勤や、佳子さまのコンビニでの買い物を撮影してきました。週刊誌もさすがにネット掲載はまずいと考えているのか、紙媒体だけで公開している。だから、あまり目立ちませんが、明らかにやり過ぎです。普通に生活している「私」の部分まで、メディアが隠し撮りするのは問題です。
メディアにはその報道に公共性と公益性があるのか、自省することが求められる
―メディアと皇室との関係性も変わったのでしょうか。
1962年に沼津御用邸に近い海岸で、美智子さまの水着姿が週刊誌に撮られた事件がありました。そこから、宮内庁は「皇室にもプライバシーがある」と主張し始めています。このトラブルが契機となって、御用邸での静養時には、一日だけご様子を撮影させる非公式な取材設定が生まれました。
こうした「紳士協定」の上で、皇室とメディアは成り立ってきた。画像や映像が必要なメディアは撮影機会が得られるし、皇室は家族団らんをアピールできるうえ、その他の日のプライバシーが保たれる。ウィンウィンの関係でした。
そうした点から言えば、小室さん夫妻の米国行きの際に撮影機会があったのも、過去の経緯から理解ができる。かつてなら「取材を一度セットするのだから、これ以上は追わない」というのが暗黙の約束となるはずです。一部報道によれば、ニューヨークに拠点を置く日本のテレビの支局では、小室さん夫妻をこれ以上追わないという申し合わせをしているようです。無用な競争や混乱を避け、大きなトラブルを生まないためにも、当然の約束ではないでしょうか。「眞子さんは今後も国家権力に守られる」と書く雑誌がありますが、見当違いだと思います。
一方、雑誌は米国での取材の申し合わせの範囲外だし、そもそも、近年の宮内庁との関係上、紳士的な約束などを結ぶ気もないのでしょう。皇室と雑誌メディアの信頼関係は失われたとしか言いようがありません。
メディアはたしかに人々の知る権利に応える責務があります。しかし、プライバシー権や肖像権を侵してまで報じる公共性と公益性があるのか、常に自省することが求められます。
小室さん夫妻の私生活を監視することが、メディアの義務であると主張する人も見かけます。そうでしょうか。元内親王である、池田厚子さん、島津貴子さん、黒田清子さんが今も税金で暮らしているのでしょうか。そうではないことは明らかです。
「バッシングを続けることは、未来の皇室を滅ぼす可能性をはらんでいる」
―二人の結婚に対するバッシングは、今後の皇族のご結婚にも影響を及ぼす可能性はあるのでしょうか。
最大の影響は、悠仁さまの結婚でしょう。皇族と結婚すれば、過去を洗いざらい暴かれかねず、プライバシーやさまざまな自由を放棄しなければならない現状が浮き彫りになりました。リスクを犯してまで、皇族と結婚しようと思う人が現れるのでしょうか。
そして、佳子さまや愛子さまの結婚の際にも、今回と同じようなことが起きる可能性は十分考えられます。
「皇室を守るため」と称して小室さんへのバッシングを続けることは、実は未来の皇室を滅ぼす可能性をはらんでいる。男系の皇位継承に固執することにも、同じことが言えます。
宮内庁は「受け身の態度」ではなく、社会とのコミュニケーションのアップデートを
―秋篠宮さまの記者会見が話題になりました。週刊誌報道やバッシングにも踏み込んで苦言を呈したこの会見について、どう受け止めましたか?
バッシングにきちんと向き合って反論するのか、報道の自由ゆえに批判は黙認するのか、両義的で分かりづらい発言にも受け取れました。「傾聴すべき意見もあった」との言葉は、小室さん批判のことを指しているのではと推測するメディアもあり、はっきりとした考えを示すべきだったと思います。
―週刊誌については「傾聴すべき意見も載っている」とした上で、「一定の基準を設けて、それを超えたときには反論するという基準作りが必要」とも話しました。この発言についてどう思われますか?
歴史的に見ると、宮内庁が報道に反論や抗議をするのは特に目新しいことではありません。週刊誌が本格的に流通し始めた戦後、特に1960年代以降は皇室報道についてたびたび問題が起きていて、週刊誌の記事に対し宮内庁が「事実無根」などと厳しく抗議したこともありました。
美智子さまに対するバッシングへの対応が遅れた反省から、94年には報道室が設置されています。2007年以降はメディアに抗議する際、宮内庁ホームページを通してその内容を伝えてきました。間違った記事に対して、その時代ごとの「基準」で反論することは以前から繰り返されているのです。
反論とは、報道がなされた後の「受け身」の対応です。私はそれ以前に、宮内庁が「攻め」の発信をしているのかも問いたい。
例えば、過去に肉声で眞子さんの考えを聞けたのは、▽2011年10月に20歳になったとき▽17年9月に婚約内定したとき▽今回の結婚会見のたった3回に留まっています。眞子さんの印象は、映像などで形成されたものがほとんどで、彼女のキャラクターや人生観を私たちは何も知りません。
当たり障りのない「公」だけがアピールされることで、「私」の部分を知ろうと、一部のメディアが普通に生活している「私」の部分の隠し撮りをしようとする。また、天皇や皇族も生身の人間であることを忘れさせ、過剰な期待を招いた側面があるのではないでしょうか。だからこそ、「私」的な思いを自ら発信することも一つの選択肢ではないかと思います。
反論するだけの受け身の態度ではなく、皇室の資源を十分に生かして、社会とのコミュニケーションを21世紀型にアップデートしてほしい。
参考になるのは、デンマーク王室の取り組みです。フレデリック皇太子は3年前、テレビ局による国内外での長期密着取材を許しました。皇太子妃と子供との生活やキャンプといった自然体の皇太子一家が撮影され、王族に生まれたがゆえの苦悩まで語られています。「私より公」ではなく、「公も私も」へと発信の在り方を変えることが、SNS時代の皇室に求められているのでしょう。
―小室さん、眞子さんが直面したような人権侵害が今後、起きないようにするために、宮内庁はどんな対応をとるべきでしょうか。
まず、誤報には徹底的に反論すべきだと思います。それもホームページ上の対応ではなく、編集者やディレクターを呼んでお互いに話し合うことです。それは対話ということでもあります。
また、ネット上には、元宮内庁職員と称して真偽不明の情報を発信するなど、悪質な報道や投稿もあります。事実に基づかないフェイクニュースや誹謗中傷については、発信者を特定して対応するなど、厳しい措置を講じるべきだと思います。
戦前は出版法や新聞紙法などがあり、それが皇族への言論弾圧に使われました。かつての条文にあった「皇室の尊厳を汚す」行為に抗議すべきではありませんし、人々の天皇制廃止を主張する権利や、皇室を批判する権利が認められるのは当然です。
ただ、制度としての天皇制批判ではなく、個人として天皇・皇族を批判する際は、面前で言えないような侮辱や誹謗であってはならないのは当然であり、それ以前に事実をねじ曲げて発信するのは許容されません。
皇族の人々の人権を守るため、宮内庁は断固たる措置を取るべきでしょう。
森暢平さん〈もり・ようへい〉
成城大学文芸学部マスコミュニケーション学科教授。元毎日新聞記者で皇族取材を担当した。退社後、国際大学大学院で学ぶ。博士(文学)。皇室の家族性や恋愛などを研究し、著書に「天皇家の財布」(新潮社)、「近代皇室の社会史―側室・育児・恋愛―」(吉川弘文館)などがある。