映画『淵に立つ』や『よこがお』で知られる深田晃司監督。深田監督は、映画業界の過酷な労働環境や、ハラスメント問題をなくすための取り組みを精力的に行う。2019年11月、仕事現場でのパワハラやセクハラに反対するステートメントをSNSで発表し、大きな反響を呼んだ。
ステートメントでは、「自分の立場を利用して相手の心身を服従させません」と宣言。「私の未来の映画が持つキャスティング権、スタッフィング権がセクシャルハラスメントに利用されていたことが明らかになった場合、そのスタッフ、プロデューサーとの仕事を取りやめます」などと表明している。
「強い立場にいる人は、自分自身の『権力性』に無自覚なんです。この問題が、日本からハラスメントがなかなか払拭されない要因になっている」
「やりがい搾取」がまかり通り、男性中心でありつづける映画業界…。どんな問題があるのか、どう変えていくべきか。深田監督に聞いた。
「自分の現場を守りたいという思いがあった」
――映画の制作現場でのハラスメントを禁じるステートメントを発表しました。なぜあの宣言をしたのでしょうか?
これまでに7本の長編映画を撮りましたが、「安全な現場を作る」ということへの意識は段々と上がっていきました。
自分自身もスタッフ時代に殴る・蹴るなどの暴行を受けてきた経験があります。昔と比べたら暴行は減ってきてはいると思うんですが、やっぱりそういう話はまだよく聞くんですよね。どうしてもハラスメントが起きてしまったり、相談を受けたりすることは続いています。
まずは自分の現場を守りたい、という思いがありました。
あとは、今自分と仕事をしてくれている人たちや将来仕事をする人に向けて、「自分はこういう考えで映画を作っている」と伝えたかった、という思いもあります。この考えに賛同できない人とは一緒に仕事をできなくてもいい、と思っているんです。
実際に、自分のまわりのスタッフに、若い女性の俳優らにハラスメントをしていた人がいました。正直に言うと、そのスタッフ本人と直接話すための前振りとしてこのステートメントを出したという背景もあります。自分は気が弱いので、本人に面と向かって言うにはエネルギーがいるんです。でも、こうしてステートメントを出すことで伝えやすくなるかな、と。
自分は被害当事者ではないですし、別に被害者から依頼をされたわけでもなく、その人を裁く権利はありません。ただ、「自分としては仕事の関係を断ちたい」という話をしました。
「相手に『嫌だ』と感じさせた行為はハラスメント」
――ステートメントの冒頭には、「私(深田晃司)が私自身に課す心構えである」とも書かれていました。
そうですね。自分自身への「戒め」のため、という一面もあります。
ハラスメントは、どうしても権力構造の高い位置にいる人の方が過ちを犯しやすいですよね。その意味で、映画監督は自分自身がハラスメントをしていることに気付きにくい職業でもあるんです。
監督に対して「いい顔をする」という風潮はやっぱりありますし、恐れている相手だからこそ気を遣って笑顔を見せることもある。「仕事上どうしても付き合わなくちゃいけないけど、怖いし怒らせたくない」という人に対しては、いつもの3割増しで朗らかに接したりしますから。
――一方で、映画監督という職業は、どうしても指導や教育をすることが必要だとも思います。ここまでいくと「ハラスメント」になる、という線引きはどう判断しますか?
基本的には、相手に「嫌だ」と感じさせた行為にはこれってハラスメントじゃないかと疑うようにしています。自分自身では「ハラスメントじゃない」と思っていたとしても、相手が「嫌だ」と言っているのであれば、耳を傾けるべきです。
ようはハラスメントかどうかというよりも、相手を傷つけたことそれ自体が問題なわけで。相手の訴えに対し「自分はハラスメントはしてない」と即座に否定するのは一番してはいけない、と思っています。
その上で、相手にしっかり謝罪をする、ということを考えなくてはいけない。「とりあえず謝ればいい」という話ではなくて…とにかく、相手の言葉や気持ちに寄り添うことが大事だと思います。
昔は見過ごされていたことでも、今はもう許されない
――「『愛があれば大丈夫』『あなたのためを思って言ってる』という言葉は指導でも教育でもなく、マウンティング」だとも言い切っています。
この業界には、「自分は映画に命をかけている」と言う方もいるんですが、そういう発言をする人ほどパワハラをしやすいという一面があります。「自分はこれだけ命をかけて頑張っているのに、なんでお前らは頑張らないんだ」という発想になるんですよね。
そもそも「命をかけている」という発想自体に問題があると個人的には思うんですが...。(笑)
「命をかけるほど映画に情熱を燃やしている」。その信念を持つこと自体は、別に問題ない。ただ、その生き方をまわりに押し付けるようなコミュニケーションをとってはいけないと思います。
――命をかけてギリギリまで追い詰めるからこそ「いいものができる」。そういう美学みたいなものが映画業界にはあるだろうし、日本社会にも蔓延していると思います。
俳優やスタッフを追い詰めないと出ないものがある、3日間くらい寝ないで徹夜を続けてギリギリまで追い込まれた時に見えるものがある…とか言いますよね。
僕はそう思いませんが、100歩譲ってそれが本当だったとしても、求めてはいけないと思っています。
俳優をギリギリまで追い詰めたり、徹夜撮影を繰り返したりした結果に得られるものは、もしかしたらあるのかもしれない。けれど、今の時代、それはもう「ドーピング」でしかないのだと思います。
スポーツ界での薬物の基準も変化していますよね。かつてはOKだったものが、今ではドーピングと認識され、違反行為になっている。
それと同じです。昔は見過ごされていたことでも、今はもう許されない。そう考えるしかないんです。ギリギリまで追い詰めたりしたら得られるものはあるのか分からないけど、これからは別の方法でそこに辿り着かなくてはいけない、という感じでしょうか。
強い立場にいる人が気づかない、自分自身の「権力性」
――ステートメント発表後は様々な反応があったのではないかと思います。
自分も同じようなことを思っていた、という人もいましたし、ステートメントが「抑止力」になると言ってくれた人もいました。映画業界以外の人から、単語を変えれば色々な業界で使えるという声もありましたね。
映画監督の方で、このステートメントに反論されていた方もいました。「映画の現場とは人間同士のぶつかり合いだ」と。
でも、自分がそうだと思っても、そのぶつかり合いはやっぱり「対等」ではないんですよ。キャリアのある映画監督で、世間から評価もされていて、年配で...となると、ぶつかり合った時に砕け散るのは大抵スタッフの方なんです。
「自分は相手と対等に接している」といくら言ったとしても、実は「対等」だと思っているのは強い立場にいる方だけで、自分自身の「権力性」に無自覚なんです。
この問題が、日本からハラスメントがなかなか払拭されない要因になっていると思います。自らの権力性に自覚的になれるかどうか、という点がすごく大事ですよね。
「ハラスメントをしない」とは、「他人を尊重する」ということ
――すごくわかります。深田監督のステートメントが、その「権力性」を自覚するための抑止力になってほしいです。ただ、自分の権力性を自覚していない人に、自らの権力性を「自覚させる」のは非常に難しいですよね。
ハラスメントをなくすのはすごく難しい。でも、ステートメントを出すとか、こうした取り組みが業界のリテラシーを上げることに繋がるのではないかとも思っています。
自分は「青年団」という劇団にいるんですが、25歳の時に入団して驚いたのが、劇団内でパワハラとセクハラ防止のためのルールが共有されていたんです。その頃は映画業界でハラスメントに取り組むなんて聞いたことがないような時代でした。
ルールがあればハラスメントが「ゼロ」になるとは限らないんですが、振り返れば、やはり抑止力に繋がっていたと感じます。集団全体がハラスメントに対する危機意識を持つようになり、リテラシーが上がるからです。
「ハラスメントをしない」とは、つまり「他人を尊重する」ということですよね。今までは、そこに対する意識が現場によってあまりにもバラつきがありました。
それが、MeToo運動などをきっかけにハラスメントという言葉がだんだん社会に浸透してきて、人の意識も変化してきていると感じます。
まずは自分の身の回りから人権侵害を減らすことが一番の目的で、このステートメントを出してから映画を作っていないので、効果のほどはまだわからないんですが…。(笑)
社会の意識が変わっている中、こうした行動を起こすことで、結果的に業界のリテラシーが向上してくれたら大変ありがたいと思います。
「もともと強烈な不平等であったものを、なんとか平等に変えようとしている」
――MeTooで、ハリウッドは劇的に変化しています。日本でもMeToo運動は起きましたが、映画業界でのハラスメントへの取り組みはそれほど進んでいないように思います。
リテラシーをコツコツ上げていくしかない、とは思うんですが...。
日本でも、映画を作る時に「犯罪を犯してはいけない」程度のことはさすがに最低ラインとして共有していますが、世界の基準はもっと変化していることを自覚しなくてはいけないと思います。
スタッフや俳優の人権を侵害してはいけない。睡眠時間を奪ってはいけない。怒鳴ったり殴ったりしてはいけない。その感覚が浸透していて、例えばアメリカでは現場で怒鳴り声を他のスタッフに浴びせた人が次の日にはクビになってた、ということが起きたりします。
MeTooやフェミニズムの話でいうと、女性の権利を訴えることで「男性の権利が侵害されている」と発想する人もいます。「コンプライアンスが息苦しい..」とぽろっと漏らす人もいますよね。でも、「男性が生きづらくなった」のではなくて、今まで生きづらい状態で生きてきた人たちの権利が少し回復したから、相対的にそう見えるだけだと思います。
フェミニズムはここ100年くらいの運動で、残念ながら人類のほとんどの社会が何千年もの間、男性社会で成り立ってきた。
そのこびりついた「垢」みたいな、常態化して透明になった特権意識は簡単に落とせるものではないんです。それをたった100年くらいの運動で平等に近づけようとしているので、ときには荒療治のように思えるものだって中にはあるでしょう。それは否定されるべきではなく、今は大きな過渡期にあるのだと思います。
MeToo運動もその過渡期の中で生まれたアクションだと思います。もともと強烈な不平等であったものを、なんとか平等に変えようとしているんです。
その中で、今まで既得権益にいた人たちがもともと得ていた権利を失うことに対して喪失感を抱いたり、ダメージと捉えたりすることは、「良い悪い」ではなく、あることだと思う。でもまずは男性側が考え方を変えていかなくてはいけないと思います。
――女性として、深田監督の言葉に励まされます。監督がそう考えるようになったきっかけは何だったのでしょうか?
いや、自分自身もどうしても男性である、ということからは逃れられないんですが...。(笑)
人との出会いがきっかけにもなってますし、20代のときに作家の富岡多恵子さんが強烈に好きだったということも大きいのではないかと思います。富岡多恵子さんは60年代以降のフェミニズムの旗手みたいな存在で、かなり影響を受けました。
すごく印象に残っていることがあって。「女流作家」と書かれることに対する不満を書いたエッセイの単行本の帯に、「気鋭の女流作家」と書いてあったんですよ。編集部は間違いなく男性でしょうね。まさしく富岡さんの問題意識がそのまま目に見える形になっていて、ちょっと面白かったんですが…。(笑)
『波打つ土地』で描かれていたような「愚鈍な男性」像も衝撃的でした。自分自身にも垢のようにこびりついている男性社会の愚鈍さ。そこに対して女性がどれだけ攻撃して、どれだけ戦ったとしても、攻撃とすら認識されない。「君は何をそんなに怒ってるの?」ときょとんとした顔で言われてしまいます。その空回りの虚脱感というものが、物凄くリアルに感じられました。
そして、自分はどうしたって「愚鈍な男性」側である。その意識はやっぱり常に持ち続けています。
あと、20代の時にフェミニズムの考えをしっかり持っている女性と友人になったことも大きいです。自分自身が脚本を書いている時、頭のどこかで富岡多恵子さんやその友人に見られているような気がするんですよね。(笑)
「映画業界に女性が少ないのは、日本映画の労働環境が劣悪だからです」
――深田監督は以前インタビューで、映画での女性の描かれ方についても言及していました。「自分の過去の作品を見ても、女性が可哀そうな目にあっている場面が多い。ステレオタイプな女性を書いてしまうかもしれない、という懸念がある」と。
そうですね。「女性だから」「男性だから」という偏見や思い込みからはどうしても自由になれないからこそ、脚本を書くときには意識的に、「このジェンダーだからこういう行動をするだろう」という考えは持たないようにしています。
例えば、最近の作品でいうと『本気のしるし』(※)に登場する浮世はすぐに嘘をついてしまう、という特徴がありますが、でも嘘は性別に関係なくつきますよね。「女性しかこの行動をしない」とか「男性しかこの行動をしない」とか、それはあるかもしれないけれど、突き詰めれば大抵のことは思い込みなんじゃないかなと思っているんです。
(※深田晃司監督初の連続ドラマ作品。星里もちるさんの同名漫画が原作で、2019年10月から12月にメ〜テレで放送された。TVerでも配信され、SNSでも大きな反響を呼んだ。)
――浮世は、ステレオタイプ的な「男性を破滅させる女性」でもあり、ジェンダーの思い込みをなくして浮世を描くのは難しかったのではないか、と思ったのですが…。
確かに浮世は「ファム・ファタール」的な女性で、そもそも「ファム・ファタール」という言葉自体が差別的だと思いますが、星里もちる先生の原作はそれを批評的に描いていると思ったんです。男性にとって都合のいいヒロイン像が消費されがちな青年誌で連載されていたことそれ自体が、ある種、批評的であり自己否定的でさえありました。
浮世は男性社会を生き抜くために「擬態」せざるを得ない。本能的に擬態をしてしまうと自分は捉えたんですが、その悲しさを描きたいと思いましたし、現代に作ることにも面白さを感じました。
最近の映画では、「女性を強く描くこと」がある種の潮流にはなっていて、ハリウッド映画でも女性が強く描かれることが続いてます。これまで「王子様に守られるお姫様」として描かれていた女性を強く描くことそれ自体、思想的なアクションとして価値があります。
でも現実では、女性はまだまだ社会の構造上、弱い立場に置かれています。
「女性だって強い」と言ったとしても、現実は、女性が医師になろうと思って医大を受けたら自分の全く知らないうちに減点をされてしまっているような暴力的な社会なわけで。
映画業界も同じです。この業界に女性がまだまだ少ない理由のひとつは、日本映画の労働環境が劣悪だからです。僕より体力がある女性は山ほどいますが、とはいえ女性と男性では、総体的に見ると体力的な違いというのもやはりある。
どうしても、社会が苛烈になればなるほど女性が不利になる。
徹夜撮影も多いし給料も低い。夫婦で映画業界で働いている場合、子供が生まれたら仕事を辞めていくのは圧倒的に女性たちの方です。
女性は社会の歪みや格差の被害を受けやすいという傾向が、やっぱりあるんです。だから男性も苦しんだらいい、男だってこんなに大変だ、という話ではないですよ。その現実を前に、表現がガス抜きをして蓋をしてはいけないと思う、ということです。
――そうした現実を変えていくために、どのような取り組みが必要だと思いますか?
自分の現場では、意見を言いやすくする環境を作りたいとは思います。監督の耳には問題が届きづらいので、オールスタッフミーティングで全体が集まる時に「ハラスメントはやめよう」という呼びかけをしたり紙面を配ったりするようにしていますが、その取り組みは自分でもまだまだ不十分だなと思っています。
韓国では、クランクインの前に必ずセクハラに関する4時間の講習を受けなくてはいけない、という規定があって。その講習を全員が受けないと映画を撮れないので、たとえ「馬鹿馬鹿しい」と思っていたとしても必ず受けなくてはいけない。そして、その費用も国が持つというシステムになっているんです。
そういった取り組みが日本にも必要だと思います。ハラスメントに対するリテラシーの格差が問題を多発させている部分があるし、個人個人の実感だけだとなかなか変化しづらい。ある程度、教育的な側面から総合的にリテラシーを上げていく必要があるのではないか、と思います。
▼深田晃司監督プロフィール
1980年生まれ。99年、映画美学校に入学、数本の長短編を自主制作した後、05年、平田オリザが主宰する劇団「青年団」に演出部として入団。06年、19世紀フランスの小説家、バルザックの小説を深澤研のテンペラ画でアニメーション化した『ざくろ屋敷 バルザック「人間喜劇」より』を監督。08年、青年団の俳優をキャストにオムニバス長編映画『東京人間喜劇』を公開。10年、『歓待』を発表。東京国際映画祭「ある視点」部門作品賞受賞。12年、映画の多様性を創出するための互助組織、特定非営利活動法人独立映画鍋を有志数人と設立し現在、共同代表理事。13年、『ほとりの朔子』公開。ナント三大陸映画祭グランプリ受賞。15年、平田オリザ原作の『さようなら』公開。16年、『淵に立つ』が第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査委員賞を受賞。17年、第67回芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。18年、インドネシアを舞台にした『海を駆ける』公開。同年、フランスで芸術文化勲章「シュバリエ」を受勲。長編最新作は19年の『よこがお』。ロカルノ国際映画祭コンペティション部門出品。作品のノヴェライズも手がけ、小説「淵に立つ」(16)、小説「海を駆ける」(18)、小説「よこがお」(19)が書籍化されている。