愛されたいと思えば思うほど、周りの人に愛されていないと感じるのはなぜだろう。
触れたいと思えば思うほど、周りの人が自分を避けているように感じるのはなぜだろう。
なんだかずっと憂いの中で生きてきた気がする。
「自分は愛されていない」とか、「人は皆、私を避けて生きてる」とか、そんなことばかりずっと思っていた。
夫婦関係だって、友人関係だって、「なんでこの人は私と一緒にいるんだろう」とずっと疑問を感じてる。
だから、旦那に「どうして私と一緒にいるの?」と聞いてしまう。
その度、旦那は困った顔をして「なんでやろな」と答える。
理由がなければ人は一緒にいてはいけないのか。
いや、そうじゃない。そうじゃないはず...
でも、私はどうしてもそれを求めてしまう。
理由がないと一緒にいる価値のない人間と思われるんじゃないか。
ずっとそう思って、ずっと生きてる。
誰かのためにできることを模索して、誰かのためになりそうなことを習得する。
何かができないと、何かしないと、何か、何か、何か...
学生時代は、本当に、苦痛だった。
年齢に縛られ、一つの箱に大人数の人間が幾何学的に並んでる。
人間関係の構築がうまくできなくて、放課後は呼び出されて「あんたと一緒にいたくないのにいてやってる」とせめられる。
もう開放してほしい。
お願いだから、ここから出してほしい。
そう、刹那に思えば思うほど「逃げちゃダメだ」と首に鎖を巻く。何重にも何重にも。
辛くて逃げたくてしていたリストカットだって、そこには何も意味はない、そこに何も価値がないことだってわかってた。
窮屈な人間関係、自分の居場所がない虚しさ、不安や絶望でいっぱいになった、パンパンになったカラダ。
「身体のなかが腐ってガスが溜まってる、抜かないと、爆発する」と刃物を片手に掴み、眠れない夜を過ごしてた。
大学に入って、箱庭のような息苦しさから開放された。
それでも、「学生」という枠組みからは出られない。だから、はやく社会に出たかった、だって、はやく「価値のある人間」になりたかったから。
気づいたら、リストカットから脱していた。
それでも、抜け出せない部分もあった。
浮気されているのに気づきながらも「私は浮気されてもしかたがない」と黙って様子をみていたり、わざと友達に嫌われるようなことをしたりと、遠回しに自分を傷つけるような行動を繰り返していた。
27歳になって「価値ある人間」になれたかなんてわからない。
でも、一緒にいてくれる友だちや大人にとって「価値ある人間」でなければならないという気持ちは年々強くなってる。
この人のために何ができるのか、この人が私に何を望んでいるのか、私の何をこの人は求めているのか。
たまに、息苦しさを感じる。
「いつまでこれを続けるんだろう」
「私は誰のために生きているんだろう」
私はもっと頑張らなきゃいけない。
まだ、これぐらいでへこたれちゃいけない。
誰かにとって意味のある存在にならなきゃ...という強迫観念は、死ぬまでなくならない気がする。
死ぬまで、生きるのは辛い。そんな自分を慰められるのは自分だけ。
今はまだ、自分に優しくできていないけど、自分を上手に甘やかせるようにならないと。
それができたときに初めて、誰かに優しくできるんだと思う。
だから、今は優しくしないで。
いつかきっと、私は生きる痛みを和らげられるはずだから。