歌手の加山雄三さん(80)が、静岡県西伊豆町の漁港でクルーザー「光進丸」が全焼した事故について、謝罪した。
加山さんは4月2日夜、東京・羽田空港で記者会見した。始終うつむきながら、声を詰まらせて目を潤ませ、「地元の方にご迷惑をおかけして申し訳ない」と繰り返した。
クルーザーについては、「光進丸」という曲を作るほど思い入れが深かったといい、「非常に近い相棒を失った。つらい」と心中を吐露した。
主な一問一答は次の通り。
【冒頭発言】
私の愛する光進丸がこんなことになりまして、ファンの皆さん、各方面の方々に、多くのご心配とご迷惑をおかけしたことを心からおわび申し上げます。安良里という村の皆さんに大変なご協力とご心配をかけたことを、重ねておわび申し上げると同時に、皆さん協力して下さっていることに、心から感謝いたします。
海保、警察、あと消防の皆さん。24時間、徹して消火をして下さっています。心から感謝申し上げます。夜寝ないで交代でやっていただいたと、夜寝るのも道路でしか寝られない。そういう状況だったと聞いています。本当に残念ですし、いろんなご心配をおかけしたこと、大変申し訳ございません。これほど悲しいことはない。これが私の本心です。
長いこと私を支えてくれて、多くの幸せを与えてくれて、あの船からたくさんの曲が生まれて、大勢の方々と一緒に楽しい時間を持てました。思い出は山ほどです。自分の半身を失ったぐらいつらいです。長い間の相棒がこんな形で消えていくというのは、本当につらいです。
何よりもご迷惑をおかけしたことは本当につらいし、ご心配をかけてきたこと、本当に申し訳ございませんでした。そして今ご尽力下さっているいろんな方々に、心から感謝申し上げます。
——火災を知った経緯は
ちょうど昨日、コンサートが終了しました。その打ち上げで、祝杯をあげるときに、関係者に電話が入りまして、僕は呼び出されたんですけど、そのときからものすごく胸騒ぎがしましたけど、聞いても言葉がなくて、今の心境、表現のしようがないですね。
——心に残っていることは
すべて。今もう頭大混乱してますんでね。いやもういっぱいありますよ。いつもつらくなって精神的に追い詰められたとき、いつも、あの船は、温かく迎えてくれ、僕を癒やしてくれたんです。
——どのような存在だったか
もう、非常に近い相棒です。その相棒を失った。つらいです。
——出火の原因に心当たりは
分かりません。今、警察と消防が一生懸命、調査が始まると思います。心当たりもないですし。分からないですね。
——いちばんの思い出は
思い出はもう尽きないですね。造ったときから家族団らん、グアム島にも行きましたし、航海の思い出というのはすごくありますからね。特に夏はいろんな所の海へ行って、乗っているみんなで、楽しい思い出を作る時間というのが多かったんで、もうそれができなくなった。
——最近乗ったのはいつか
1週間以上前ですね。とにかく忙しかったもので、ご無沙汰してたんですね。
——具体的に乗る予定はあったのか
もちろんありましたけど、5月の連休明けに少し海が静かになったときに、いろんな方に来ていただく計画を毎年立てていたのが、今年もあったんですけど。
——油の流出は
それはいちばん気にしてるんですけど、それは今のところありません。特に保安庁の方はそれがいちばん気になるというので、厳重に対処して頂いている。
——光進丸のどんなところに愛着が
全部です。何もかも。私の分身みたいな存在だっただけにね。すべて隅々まで知り尽くしているわけです。だからなぜ...
——燃えている映像は直視できましたか
いや、もう、ショックでね。夢であってほしいな、ウソだろうという気持ちでね。皆さんが心配してくれて、本当に申し訳ないと思います。
——修復は可能なんですか
よくわかりません。まず不可能だと思います。
——加山さんの船や海の思いは
変わりません。まだ生きてますんでね、海への愛と、感謝の心と希望は持っています。まあ、つらいことは起きるのが人生だと思うんですけど...。
——もう一度という思いは
もう今それどころじゃないですよ、頭の中。大変申し訳ないです。
——3代目の光進丸、どれぐらいの金額をおかけになられたのか
コメントは控えさせていただきます。
——楽器も積んでましたか
一応、積んでおりました。ギターもベースもキーボードもあります。
——光進丸に対して、申し訳ないという思いは
申し訳ないと同時に感謝の気持ちでね。心で手を合わせて、よく今まで頑張って、我々に幸せを与えてくれたなあという気持ちでいっぱいです。
——今すぐにでも飛んでいきたいという気持ちですか?
混乱しておりますんでねえ。船も皆さん、一生懸命やってくださってるんで心配ですけど、私がしっかりしないといけないなと思うんですけど、人生ずっと一緒に歩いてきた船ですから、それがなくなるということは、本当につらいです。
——船を大切にするという思いと、火災に対しての気遣いがおありになったんですよね。
それをずっと持ってきたんです。安全のことも、検査を通してやってたんです。だから、なぜ。そんな気持ちが非常に強いです。
——ご家族とは話されたのか。
もう、みんな泣いてました。つらいです。子どもたちだって生まれる前から、光進丸は何代も続いている。一緒に海洋合宿をやったり、それこそ小さいときからの思い出山ほどで。情けないです、本当に。
——次の船ということは
そんなことは答えられませんよ。
——コンサートでは「光進丸」は歌うのか
いや、僕は歌います。光進丸のためにもね。
——いつごろ、どういう経緯で買ったのか
あの船は買ったんではないんです。自分で設計しまして、だいたい全部ほとんど私自身が設計をして造ってきたんです。日本の造船所で造りました。買ったんじゃないんです。自分の手で生んだ船です。
——人生は航海そのものとおっしゃっている。今後どのように歩んで行かれるおつもりか
もう、とにかく前を向いて、心して。人生は試練がいろいろあると思うんで、こんなことでめげないで、皆さんにご迷惑をかけたことをおわびしながら、前を向いて頑張って生きたい。夢は捨ててません。一歩一歩また、地に足をつけてがんばって行こうと思ってますんで、今後ともよろしくお願いします。
——光進丸をどのように歌っていきますか
たとえば友達がなんかしたときに歌う曲と同じような気持ちで歌います。光進丸、ありがとう。心からお前のことを愛してみんなに幸せをくれてありがとう。気持ちとして、手を合わせながら、もらった幸せを生涯持って感謝しながら、また歩いていくぞと言う気持ちで歌いたい。
——光進丸に声をかけるとしたら
ありがとう。よく頑張ったな。