3歳の誕生日、旅行で訪れたハワイ。
オアフ島のサーフショップで、プレゼントに自ら選んだのは、6フィート、シングルフィンのサーフボードだ。
そのままショップで滑り止めのワックスを塗り、海へ直行。
父親に押されて、初めて波に乗ったのがこの時だった。
サーファーである両親譲りのセンスだろうか、なんと、1回目でボードに立った。
「もう1回!もう1回!」
波乗りの感覚に魅了され、そのまま何度も何度も繰り返し波に乗った。
これが、その後「サーフィン界の神童」と呼ばれる少年のサーフィンライフの始まりだった。
ーー
あれから19年。
その少年は、今や、世界トップクラスのサーファーとして、世界中の海を舞台に活躍しているーー。
来たる東京オリンピックで初めて競技として採用される、サーフィンの日本代表候補選手、五十嵐カノアだ。
しかし肝心のオリンピックは、新型コロナウイルスの影響で、2021年夏への延期に。3月27日付けの米ロサンゼルス・タイムズ紙でこう話した。
「今は身勝手に自分のオリンピックのことを考える場合ではありません。どう地域に貢献できるかを考えています」
「アスリートを超える存在」を目指す、五十嵐選手の信念がにじみ出る。ハフポスト日本版は、オリンピック延期が決定する前の2月末、日本を訪れていた五十嵐選手に話を聞いた。
最大の武器で狙う「金」
日本人の両親の元、アメリカ・カリフォルニア州で生まれ、サーフィンのメッカとして知られるハンティントン・ビーチで育った。
3歳でサーフィンを始め、11歳でNSSA(全米アマチュアサーフィン連盟)の大会でシーズン最多となる30勝を記録。
14歳でUSAチャンピオンシップ18歳以下の部を、史上最年少で優勝した。
そして2016年、18歳で世界最高峰のチャンピオンシップツアーWCTにアジア人初として参戦。
2019年の世界ランキングは自己最高の6位を記録した。
着実に世界の頂点へ近づいている彼は、東京オリンピックの日本代表候補選手として注目を浴びている。
幼い頃から多くの大会を制し「Prodigy(神童)」と呼ばれてきたが、そんな彼も今は22歳。
持ち前のスピードを生かしたエアーを武器に、金メダルを狙うー。
「これは戦争ではない」
アメリカで生まれ育った五十嵐選手は、以前はアメリカ国旗をゼッケンの肩に掲げ、競技していた。
彼がその国旗を日本に変えたのは、2018年のことだ。
「どの国を代表するかなんて、1度も考えたこともなかった。もっと若い時は、ただ自分の為に競技をしていたし、ずっと『日本とアメリカを代表している』という気持ちでいたので」
しかし、舞台が大きくなるにつれ、「どの国旗を付けるのか?」という選択を強いられる時がきたという。
「戸惑いましたが、僕に多くを捧げてくれた両親や日本の家族に敬意を示したいと思ったんです。 家族や日本人としてのルーツを考えた時、これが自然で正しいことだと感じた。 そして家族に僕の海での活躍を、もっと身近に感じて欲しいと思いました」
五十嵐選手が日本チームに加わる事に日本が沸いた一方、アメリカでは様々な意見もあった。
しかし彼は、そういった声も前向きに受け取った。
「誰も気にしないだろうと思っていたから、正直びっくりしました。僕の選択に人々が関心を持ってくれたことは、ある意味嬉しかった。そしてそれは、僕がサーフィンの世界である意味重要視されているということだと受け取りました。自分はサーフィンにおいて、やるべきことをやっている、と」
そして、「競技で代表する国を選ぶ時、これはサーフィンで、スポーツであって、戦争ではありません」と加えた。
「子供をプロに」その一心で…
五十嵐選手は、プロサーファーとなるべくして生まれてきたと言っても過言ではない。
そこには両親の強い想いがある。
共にサーファーである彼の両親は、1995年に将来子供をプロサーファーに育てるため、日本からサーフィン環境の良いアメリカ・カリフォルニアに引っ越してきた。
しかし、父親・勉さんは当初英語もあまり分からず、日常生活にも苦労をしたという。
さらに、テロやリーマンショックなどでアメリカの景気が悪くなり、経済的に日々の生活も大変になっていったそうだ。
それでも勉さんは「プロサーファーを育てたい」という一心で、様々な仕事をこなしながら、何とかアメリカに留まった。
五十嵐選手はそうした両親の思いを受け、徐々にサーファーとしての才能を開花させていった。
弟のキアヌ選手も、アマチュア大会での活躍を経て、今シーズンから本格的にプロサーファーとして活動を始めている。
「サーフィンが僕に居場所をくれた」
「カノア」という名前は、ハワイ語で「自由」という意味。
日本とカリフォルニアの中間であるハワイの言葉ということ、そして将来、ハワイのサーフィンの聖地「パイプライン」に行ったときに、ローカルだと思われてより多くの波に乗れるように、との願いを込めてつけられたという。
アメリカは多民族国家であるが、五十嵐選手が育ったハンティントンビーチは、白人が多くを占める街だ。
アメリカで生まれ、英語に不自由ない五十嵐選手だが、それでも違和感を感じていたという。そんな彼にとって、サーフィンは大きな意味を持った。
「ハンティントンビーチで育つにあたって、僕にとってサーフィンは大きな存在でした。サーフィンが僕に居場所をくれたんです。いじめなどを受けたわけではないですが、僕は周りと違っていると感じていた。アジア人、日系人でアウトサイダーだった僕が、サーフィンで活躍することで一気にクラスのスターになることもできました」
「サーフィンはとにかくオープンで、サーファーはみんな波をシェアする仲間。サーフィンによって友達と繋がり、ローカルに溶け込むことができた。自分は周りと違っていたけれど、サーフィンが僕をみんなと溶け込ませてくれた。その全てにおいて、サーフィンへの感謝を一生忘れません」
神童にとって「海」とは…
ハワイ語で「自由」を意味する「カノア」ー。彼の一番好きな言葉は、ポルトガル語で「自由」を意味する「Liberdade」 だという。
そしてその「自由」こそ、五十嵐選手が好きなサーフィンの象徴だ。
「サーフィンの素晴らしい所は、水の中で得られる自由。海にいるときは、自分と海とサーフボードだけ。波に乗りたければ乗ればいいし、乗らなくてもいい」
そして海は、彼にとっては人々とつながる場所でもある。
人々が友達とカフェでお茶をするように、彼は海でサーフィンをしながら友達や弟や父などの家族と会話をする。
一方、海・サーフィンは彼にとって競技場でありオフィスでもある。
「僕にとって海は、とてもユニークで特別な場所で、携帯電話や現実から遠く離れ、母なる大地に包まれるような場所」と話す。
話せる言語は「4.5カ国語」
世界ツアー中はもちろん、オフシーズン中も世界を転々とし多忙な五十嵐選手。
インタビューのこの日も、朝にインドネシアから日本に着いたばかりだった 。
常に世界を渡り歩き「拠点はない」と話すが、カリフォルニアやポルトガルに家を持つ。
ポルトガルは「オフモードになれて自分自身になれる」とお気に入りの場所だという。
実際、五十嵐選手はポルトガル語が堪能だ。
ほかにも、日本語・英語・スペイン語、そしてフランス語(現在勉強中)と、合計4.5カ国語を話す。
日本語は両親から、英語は地元の学校で、ポルトガル語はブラジル人の友達から…と、それ以降は国々を旅しながら喋れるようになっていったそうだ。
「僕は世界とつながっている」
高校を卒業したのち、プロサーファーとして世界を回る選択をした彼にとって、旅はまさに「学校」だった。
「世界を旅する事は、僕の人生を変えました。決まり文句に聞こえるかもしれませんが、僕にとっては本当のこと。旅するとき、それぞれの土地に学びの姿勢を持ってオープンでいることで、文化、人々、言語を学んでいった。いつも意識的に学ぼう、経験しよう、としていました」
そしてそれは、話し方や人や自分の見方、人生の捉え方 、そして競技や食べ物、服装からマナーまで、すべての面で彼に影響を与えた。
「僕は世界とつながっていると感じています。特定の文化でなく、世界が僕を形成し、それらのブレンドやフュージョンが自分だと感じています。そんな貴重な経験に、とても感謝しています」
彼が旅してきたそんな世界の中でも、日本、アメリカ、ポルトガルに強い繋がりや影響を感じているという。
「自分はとても日本人だと思いますが、こんな経験をしてきた自分を『世界の市民』だと感じています」
″大怪我”負ったからこそ…
幼い頃から世界を周り、若くしてチャンピオンシップツアー参戦を果たした五十嵐選手。
順風満帆のキャリアに見えるが、不安や挫折がなかった訳ではない。
13歳の時、サーフィンの練習中に左足を骨折。焦りと不安に駆られたという。
「どうなっちゃうんだろう、と。もしかしたら6カ月か1年くらいサーフィンできないと言われて、みんなに追いつかれちゃう、レベルが下がっちゃうかもしれない、もしかしたらサーフィンが一生できなくなっちゃうかもしれない、と本当に落ち込みました」
しかし、彼は困難を乗り越え、再びトップステージに復活した。
「戻ってきたら、前よりもモチベーションが上がって、やっぱり本当にサーフィンは幸せだな、と気持ちをまたリセットできたんです。怪我をした時は辛く大変でしたが、後から見れば、それがメンタルをリセットするきっかけとなって、良かったのかもしれません」
そして今、サーフィン史上初の、オリンピックの舞台に挑もうとしている。
五輪会場は”運命の地”に
サーフィンは、2021年に予定されている東京オリンピックで初めて競技として採用される。
採用が決定した時の喜びはひとしおだったという。
「まさに夢が叶った!と思いました。自分にとってチャンスというだけでなく、自分のスポーツが偉業を成し遂げた、という嬉しい気持ちになりました。サーフィンは僕にとって自分の子供のようなものだから。僕に多くをくれた『自分のスポーツ』という思いが強いので、このようにオリンピック種目になって、誇れる父親の気分です」
そして偶然にも、開催されるのは、父・勉さんが昔からホームポイントとしてサーフィンしてきた、千葉の釣ヶ崎海岸だ。
五十嵐選手自身も、小さな頃から日本に来てはそこでサーフィンしてきたという思い入れのあるビーチだ。
「他の大会とは全く違う意味を持ちます。僕だけでなく、これは家族にとっても大きな事です」
アメリカの両親だけでなく、今も日本に住む祖母も、「今まで人生でたくさんのことを経験してきたけど、1つだけ欠けているのは、孫がオリンピックでサーフィンするのを観戦すること」と楽しみにしており、それが彼のモチベーションにもなっている。
オリンピックは延期になってしまったが、延期決定前、延期が懸念される中でのCNNでのインタビューでは、「オリンピックが7月だとしても、延期されても、僕らサーファーは何事にも準備はできている」
「辛いが、過程を信頼し、自分がコントロールできることだけに集中し、どうなるかを見守るしかない」と話していた。
「アスリート以上の存在になりたい」
まさにワールド・アスリートと呼ぶにふさわしい五十嵐選手にとって、2020年の夢は、もちろん「オリンピック金メダル」だと話す。
残念ながら、大会延期により、この夢は2021年に持ち越されることになる。
しかし、彼の長期的な目標は、もっと大きなところにある。
「サーファーよりも、アスリートよりも、もっと大きな存在になりたい。スポーツで築いた名声を使ってメッセージを広め、世界にポジティブな影響を与えられるようなロールモデルになりたいです。 それこそが、まさに真のスポーツマンだと思う。トロフィーやメダル、お金を得るよりもずっと意味のあることです」
ロールモデルにする人物について尋ねると、サッカー界のレジェンド「デイビット・ベッカム」との答えが返ってきた。
彼は元プロサッカー選手で元イングランド代表キャプテンなど、スポーツでの功績はもちろん、引退後も子供達にサッカー教室を開催したり、ユニセフとの基金を設立するなど、サッカーだけにとどまらず、社会に貢献している。
「世界の優れたアスリートは、スポーツを引退してからも、世界にポジティブな影響を与えている人達。それはアスリートとして次の次元です。いつかそのようになりたい、というのが僕のゴール。サーフィンは僕にそのチャンスをくれた。 そのために、重要な問題について教育を受け、ポジティブなメッセージを広めたい。僕にとってはもちろん海がテーマで、サーフィンや海や環境を守る、ということに貢献したい。それが僕の将来のゴールです」
五十嵐カノア
1997年、アメリカ・カリフォルニア州生まれ。サーフィンのメッカとして知られるハンティントン・ビーチで育つ。3歳でサーフィンを始め、14歳でUSAチャンピオンシップ18歳以下の部を、史上最年少で優勝、2016年、18歳で世界最高峰のチャンピオンシップツアーWCTにアジア人初として参戦。2019年の世界ランキングは自己最高の6位を記録。東京オリンピックの日本代表候補選手。2020年からハワイ観光局親善大使も務めている。持ち前のスピードから生み出されるエアーを得意とする。サーフィン競技だけでなく、サステナビリティーに関わる活動でも今後世界に貢献していく方針。木下グループ所属