「死を重々しく考えたくない、かと言って軽々しく考えたくもない」
独り言のようにおじいちゃんが言う。
「この絵本をどう終えればいいのか分からない」
(『かないくん』 谷川俊太郎作・松本大洋絵 東京糸井重里事務所刊)
『かないくん』という絵本が話題になっている。企画・監修:糸井重里、作:谷川俊太郎、絵:松本大洋、ブックデザイン:祖父江慎......。このメンツを聞くだけでも、「話題」になることは確実だったようには思われる。しかし、この絵本はお祭り騒ぎ的なものとは一線を画した、静かで確実な広がり方をしているように感じられるのだ。それは、『かないくん』が、ドラマのない場所に成り立つ物語だからなのではないだろうか。
物語は、少年が、同級生である「かないくん」の死を知らされるところから始まる。「かないくんがつくったきょうりゅうが、まだある。かないくんがかいたえも、まだはりだされている。でももうかないくんは、しゃしんのなかにしかいない」「しぬって、ただここにいなくなるだけのこと?」少年は日常の中で静かに考え続ける。......と、ここで突然、車椅子の老人の後ろ姿が描かれる。「ここまで出来てるんだが、ここで止まったっきりだ」絵本のスケッチを孫娘に見せながら彼は言う。どうやらいままでの物語は、絵本作家である彼が描いたものであったらしい。「金井君てほんとにいたの?」そう問いかける孫娘に、老人は答える。「ほんとにいて、ほんとに死んだんだ、四年生のとき。六〇年以上たって、突然思い出した。それでこの絵本を描きだしたんだがね」。しかし、「どう終えればいいのか分からない」。老人は自分が余命いくばくもないことを知っている。「金井君はおじいちゃんの先輩なんだ」孫娘は思う。「死んだら終わりまで描ける」と孫娘の耳もとでささやいた老人は、その後しばらくしてこの世を去ることとなる。孫娘は祖父の死をスキー場のリフトの上で知る。「泣いているのか、笑っているのか」分からないような表情をした彼女が、真っ白なゲレンデを滑り降りていくシーンをもって、物語は幕を閉じる―― 淡々として、静かで、とくべつな盛り上がりもなく、暗くもなく、悲しくもなく、冬の薄曇りの空のような、ぼうっとした奇妙な光が心のなかにただただ広がっていくような......そんな不思議な絵本であった。
この絵本の帯には「死ぬとどうなるの」との問いかけがある。しかし、その答えは、最後まで明確なものとして示されることはない。形だけでも答えを示せば、ドラマは生まれたことだろう。しかし、それをしなかった。いや、「しなかった」のではなく、「できなかった」のだろう。死を目前に控えた老人によりそった地点からストーリーが語られているがゆえに、彼自身の死をドラマとして仕立てあげることができなかったのだ。
「他人の死」はドラマになる。しかし、「自分の死」はドラマにはなりえない。「自分の死」、その瞬間とその後の物語は、決して自分では「体」験できないのだ。言うまでもないことだが、死ぬときには同時に肉体も終了しているからだ。
死というものをドラマチックに描き出した物語などくさるほどある。「泣ける映画」「泣ける小説」とのキャッチコピーがつけられたものは、たいてい誰かが死ぬシーンをクライマックスに持ってきている。しかし、考えてみれば、それらはすべて、他者の視点から語られたものではなかっただろうか。というか、どこかに他者の視点が入らないことには、すべての物語はドラマにはなりえないのだ。ドラマを体験するのは、いつだってそれを経験した本人ではなく、他人なのだ。
少年だった「おじいちゃん」にとって、「かないくん」の死はドラマそのものであっただろう。しかし、「かないくん」を「先輩」として見る、いまの老人にとっては......。冒頭に挙げた老人の独り言が静かに胸を打つ。ドラマのないところから放たれた、リアルな言葉たち。
誰も自分の「死」をとらえきることはできない。でも、静かに見つめることなら......
『かないくん』は、途中で語り手が、老人から孫娘へとバトンタッチされる。しかし彼女は、祖父の死を目の前にしても、どこか淡々としている。最終的に彼女は、老人と同じ地点から「死」を見つめる、そんな役割を物語に任される。ドラマのないところから見つめた「死」は、そして「生」は......
真っ白なまぶしい世界の中で、突然私は「始まった」と思った。
何が始まったのかは分からない。
でも終わったのではなく、始まったんだと思った。
人間の死亡率は、これまでのところ100パーセントだ。死は、あまりにも当たり前のものなのだ。過剰に恐れるべきものでも、そして、過剰に憧れるべきものでもない。ただ、淡々と受けいれていくものなのだ。
『かないくん』のような絵本が、若い世代を中心に、静かに広がり、受けいれられていくこの世の中に、私はかすかな希望を見出している。生と死は一対のもの。ドラマに逃げず、「自分のもの」としての「死」を見つめて、はじめて、「生」というものは本当の意味で始まっていくように思う。
みな、いよいよ、「生き始めよう」としているのではないだろうか。健やかな世界の萌芽が、そこには見えるような気がするのだ。