2023年上半期に反響の大きかった記事をご紹介しています。(初出:3月10日)
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福島市の里山にある小さな牧場が、生まれ変わろうとしている。
12年前の原発事故で影響を受け、一時は経営危機に陥ったが、地域や人とのつながりを大切にする取り組みと、牧場に隣接するカフェの誕生で持ち返した。
しかし、未曾有の災害で受けたダメージに加え、少子化や後継者不足など、酪農を取り巻く環境は依然として厳しい。
地域から長年愛されている創業64年の牧場。そして、牧場に人を集めるきっかけとなったカフェ。
「父が始めた牧場を100年先も守りたい」
創業者の長女でカフェ代表の国府田純さんは、新しい一歩を踏み出した。
※クラウドファンディングの受付はすでに終了しています。
この牧場にしかない味の牛乳
福島市西部の佐原地区。
約650人が住む小さな里山には、香りの良いモモやブドウの果樹畑が広がる。
西には福島、新潟、山形の3県にまたがる吾妻連峰の山々があり、東には12年連続で水質日本一となった荒川が流れる。
国府田さんの父・健三さんは1959年、この土地で1頭のホルスタイン牛を飼い始めた。
これが「佐々木牧場」の始まりだ。
健三さんは農家の息子だったが、地区の主要産業である稲作と養蚕に衰えを感じ、酪農に舵を切った。
まさにゼロからの出発だったが、徐々に客のハートを掴んでいった。
1987年には「低温保持殺菌プラント」を導入した。
このプラントは、原乳を63度・30分間という低温・長時間で殺菌する。
搾った乳は農協に卸すことが主流だが、このプラントができたことによって、佐々木牧場で牛乳の生産・加工・販売を行うことが可能になった。
また、低温長時間殺菌は、高温・短時間の一般的な殺菌方法よりも、原乳に近い風味の牛乳を生産できる。
牛乳に含まれるタンパク質が、高温殺菌で変性してしまわないからだ。
それが、すっきりした舌触りでほんのり甘いという、“この牧場にしかない味の牛乳”を生みだすことになった。
「有限会社ささき牛乳」を設立し、瓶詰め牛乳の宅配事業を始めると、地元を中心に人気が集まり、最盛期は1000戸に宅配するまでになった。
「自分の手で、牛乳の本当のおいしさを届けたい」という健三さんの思いが、実を結んだ。
震災で牛乳を売り出すことができなくなった
地元の食を支える「街の牛乳屋さん」。
佐々木牧場はその後、国府田さんの弟・光洋さん夫婦に引き継がれ、確実に切り盛りされていった。
決して規模は拡大せず、宅配の客を大切にする丁寧な姿勢を貫いた。
しかし、2011年3月11日に東日本大震災が起きた。
福島市は断水や停電に襲われ、住宅地の斜面が崩落したり、大学の校舎が崩れたりするなどの大きな被害が出た。
東京電力福島第一原発事故で、原発周辺に住む大勢の住民らが福島市内に避難し、3月15日には市内47避難所に約8500人が身を寄せた。
原発から60キロ離れている福島市にも、原乳の出荷制限が発令された。
自慢の牛乳を売り出すことができなくなり、牧場では牛の乳を搾っては地面の穴に廃棄する日々が続いた。
搾乳しなければ、牛が病気になってしまうからだ。
約1か月後に福島市の出荷制限は解かれたが、心が離れた客もいた。
農林水産省の資料によると、原乳は2011年4月以降、放射性物質検査で基準値(1キロあたり50ベクレル)を越したことはない。
自給していた牧草を北海道から取り寄せ、放射性物質の検査も毎回クリアしているのに、なかなか、その安全性と思いが伝わらなかった。
当時、小学校教員だった国府田さんは、「『県産食品からセシウム』という報道があると、注文をキャンセルする電話が鳴ったようだ」と話す。
そして、こうも述べた。
「光洋を取材した新聞記事に『表情がなくなっていた』と書いてあった。あまり多くを語らないが、辛かっただろうし、あの時の弟夫婦の努力がなければ今の佐々木牧場はない」
小学校教員を辞め、牧場に帰ってきた
綱渡りの状態が続いたが、牧草地を除染し、2013年から牧場の見学会を始めた。
原発事故の影響を受けて廃業する牧場も多いなか、佐々木牧場では生産者と客の関わりがより深まり、光洋さんは「モー兄」と親しまれるようになったという。
そして、国府田さんも24年間続けた小学校教員を辞めた。
健三さんが、「佐々木牧場に人が集まれるようにしたい」と話していたことがきっかけだった。
しかし、パーキンソン病が進行しており、自分では思うように動くことはできない。
「光洋夫婦は牧場の仕事が忙しく、顧客の新規開拓をする時間はあまりない。父の言葉を聞き、次の私の仕事は『これだ!』と思った」
「一度、心に決めたら前に突き進む性格なので、教員をやめることに心残りはなかった。とにかく自慢の牧場に人を集めたいなって」
目の前の牧場で搾った牛乳から作られる商品
国府田さんは2015年、教員として働きながら土日を利用して「ささき牧場カフェ」の開店準備を始めた。
カフェは、佐々木牧場の「入り口」となる。
商品を通して、「どうやって牛乳ができているのか」や「どのように牛が育っているのか」に興味を持ってもらえれば、自然と牧場に人が集まるのではないか。
そして、退職して1か月後の16年5月、「ささき牧場カフェ」をオープンした。
目の前の牧場で搾られた牛の乳からできたソフトクリームは、口コミで「おいしい」と評判になり、1日1000人が訪れる日もあった。
ソフトクリームのほか、牛乳、牛乳パン、チーズなど、新商品を次々に販売した。
水を1滴も使わないでつくった牛乳パン。綺麗な水が流れる佐原地区のわさびを使った「わさびソフト」。
いずれも、店の看板メニューになった。
「目の前の牧場で搾った牛乳から作られる商品だから、お客さんの中で安心感が生まれたんだと思う」
子ども達は一目散に牛のもとへ駆けていき、営業車で立ち寄ったサラリーマンはホッとした表情で牛を見つめている。
健三さんが言っていた「人が集まる牧場」となった。
100年以上前に建てられた土蔵
一方、酪農業界は原発事故の影響に加え、少子高齢化や後継者不足にも悩んでいる。
「福島の畜産」(2021)によると、酪農家の戸数は減少傾向にあり、2021年は原発事故前の2010年(567戸)の半分となる284戸になった。
国府田さんはこのような現状を受け、さらに新たな取り組みを仕掛けることに決めた。
それが、「100年先へのプロジェクト」だ。
佐々木牧場やカフェがある実家の敷地内には、100年以上前に高祖父が建てた土蔵がある。
床面積は100平米ほどで、ここにパン工房などを備えた「いさばラボ」を新設するという。
ラボには、未来の酪農家を受け入れるための研修室も備える。
「カフェの客は『佐々木牧場の牛に会えること』を楽しみに来ている。私はこの光景を100年後も続けていきたい。そのために高祖父が残した“宝物”を活用したいと思った」
100年先も牧場の風景を残したい
ささき牧場カフェでは20〜60歳代の女性8人が働いている。
「いさばラボ」ができることで、年齢や性別を問わず、酪農に関わる新たな雇用を生み出すことも目指している。
ただ、設備費などを含めると1000万円以上の費用が必要になる。そのため、半分の500万円をクラウドファンディング(最終日3月31日)で集めることにした。
国府田さんは語る。
「ささき牛乳を30年間愛してくれている人もいる。原発事故の影響は受けたが、小さい牧場だからこそできることをやり、『ホッとできる牧場の風景』を100年先も残していきたい」