書評:「原発棄民」日野行介(毎日新聞出版)
長引く原発避難の現状を探るため、仮設住宅、見なし仮設、復興公営住宅、災害公営住宅(←この2つの違いがわかるだろうか?)、役場、県庁などなど徹底した現地取材で炙り出す、現場の不条理が活写されている。
福島原発事故の長期化が明らかになってきた2012年に、単なる仮設住宅ではなく、住居、学校、病院、福祉施設からなる町外コミュニティ拠点(いわゆる「仮の町」)を作るべきではないか、という避難民の人生にとり最も本質的な議論が福島県や総務省で開始されたとき、法的に二重戸籍を作れない、という役所の都合で、廃案になっていったという驚くべき事実を、時系列にそって緻密に調査している。
その過程で明らかになるのは、「復興」がいかに本来あるべき姿からかけ離れた、役所の内的な都合で決定されてゆくのか、という寒々しい姿である。
住宅援助(見なし仮設、復興公営住宅など)についても、状況的には「避難」であるはずなのに、復興公営住宅に入居したり、新居を買う場合の賠償金の増額制度によって、新たな土地への定住に人々を追いやり、そうすることで、「避難の終了=賠償の打ち切り」をできるだけ早く達成するという目標ありきで、国が、県庁が、施策を進めていることが明らかとなる。
自主避難者に対してはもっと酷い。そもそも国際基準1mSv/年の20倍の、20mSv/年で線引きをしている避難基準の矛盾が噴出する。役人は、「帰りたいか、帰りたくないかをそれぞれ決めてもらう。帰還を強制している訳ではない。」と言い張るが、帰還か定住かの判断を迫り、実質「避難」を終え、住宅支援を軸とする支援打ち切りを発表する。経済的に立ち行かず、福島県内の自宅に戻るしか選択肢がない人が、「なぜ被ばくを強要されなければいけないの?」と質問しても、無視されるのみ。
そんな矛盾だらけの現場のケーススタディをいくつも精査してゆく中で浮き彫りになるのが、国益、省益、県益という名の下正当化された、市民の「切り捨て」である。
時代を揺るがす災害(今回の場合、人災)が起こったとき、調査報道とは、なにも東京の国会図書館に通ってやるものではない。被害にあった人々の目線に立ち、彼らの人生の時間から、権力のあり方を照射すること、その齟齬を明らかにすることこそがその主眼にあるべきだ。その点、本書は、権力による「箱の復興」が、いかに「人の復興」から乖離しているのか、を丁寧に描き出しており、その視点の正しさとその背後を貫く記者の執念(=怒り)に、読者は心を動かされずにはおれない。調査報道のあるべき姿を示しているといえよう。
そして、読み終えた読者を襲うのは、官庁において、このような「省益」「国益」「県益」のメンタリティが根底にあり続けるかぎり、同じような災害があれば、再び同じ過ちが起きるという、暗い確信である。
舩橋淳