福知山線脱線事故現場を歩く(JR西日本-後編-)

福知山線脱線事故から10年。私は事故現場を2度訪れており、当時の様子を綴ってみよう。

福知山線脱線事故から10年。私は事故現場を2度訪れており、当時の様子を綴ってみよう。

■福知山線脱線事故現場へ

2005年8月7日の朝、私はJR西日本東海道本線三ノ宮から快速大阪行きに乗り、尼崎で下車。徒歩で福知山線脱線事故現場へ向かう。同年4月25日に大惨事が発生し、福知山線は尼崎―宝塚間が2か月間の長期不通を余儀なくされた。 

第1新横枕踏切付近には、渦中のエフュージョン尼崎(分譲マンション)がある。綺麗な建物で、住民は"終の棲家"を手に入れたはずだった。しかし、カーブを曲がりきれなかった電車が突っ込んでしまい、転居を余儀なくされた。被害者は乗客だけではない。

誰も住めなくなったエフュージョン尼崎では、男性警備員数人が門番の如く、見張っている。向かい側は、尼崎市中央卸売市場北門である。  

第1新横枕踏切を渡って右折し、道路を歩く。脱線した前から3両目の車両がフェンスを突き破り、道路にはみ出た場所である。交通量が少なく、ドライバーや歩行者などが巻き添えを喰わなかったのが不幸中の幸いである。  

少し歩き、エフュージョン尼崎を眺めていると、献花台が設置されており、白い花が沢山たむけられていることに気づいた。"物見遊山"でこの地へ足を向けたわけではないから、献花台に行くのが礼儀というもの。しかし、近辺に花屋が見当たらない。  

道ゆく人々の一部は、事故現場に目を移す。クルマを運転している人も一瞬のワキミをしてしまうほどだ。もしかしたら、あの惨劇をまのあたりにしたのだろうか。電車に乗っている人も気にしており、落ち着く日は訪れないのかもしれない。  

付近には小さな工場が6つあり、脱線事故発生時、仕事を中断して救助作業にあたっていた。ここは準工業地帯で、近辺に工場が点在する。住宅も多く、入居の際はトラックの出入り、騒音、油のニオイなどを理解しなければならない。

電車が事故現場をゆっくり通過する。宝塚方面はレールと車輪の摩擦音をきしませ、尼崎方面はかなり速度を落としている。  

事故現場のカーブは、営団地下鉄(現・東京メトロ)日比谷線の脱線事故でクローズアップされた、脱線防止ガードを敷設していない。惨劇を2度と起こさないためにも、スピードを落とすだけでは物足りない。"常に万全、磐石の態勢"でなければ困る。  

9時18分、あの事故が起こった時刻だ。快速JR東西線経由同志社前行きがゆっくり通過すると、乗客は現場にクギづけで、特に落ち着かない様子。車掌は惨劇を思い出したくないのか、目をそむけた。

その直後、対向のエル特急〈北近畿3号〉城崎温泉行きが通過。事故現場付近の第1新横枕踏切で、同列車運転士の判断及び、歩行者が非常ボタンを押さなければ、「下り列車が上り列車に衝突して脱線する」という、未曽有の大惨事となっていた。  

■慰霊の第1新横枕踏切

第1新横枕踏切に戻る。先ほどは何気なく渡ったが、柵が朱色になっていること、小さなお地蔵さんの存在に気づく。柵には、風雨に耐えられるよう、ビニールでガードした、短歌と折り鶴が数え切れないというか、数えること自体が失礼なほど掲げられている。  

御遺族や負傷者の方が無念を短歌に託し、"風化させたくない"という切実な思いが強い。この事故は外国にも伝わり、日本の定時運行のあり方に疑問を持つ国も多かったようだ。その国は「定時運行より安全優先」、「定時運行を宿命づけられているようでは、息がつまる」と言いたいのだろう。  

■献花台で犠牲者の御冥福を祈る

エフュージョン尼崎に立っている男性警備員に「私は旅の者ですが......」とおそるおそる花屋の所在をきくが、やっぱりなかった。しかし、意外な言葉が耳に入った。

「なくても入れますよ」  

お言葉に甘え、エフュージョン尼崎の敷地に入り、駐車場付近にある献花台に向かう。  

警備員計5人、JR西日本社員1人(すべて男性)がかなり深々と一礼し、恐縮。献花台で私はお線香とお焼香をして、志なかばで命を奪われた乗客106人、事故を起こした運転士の御冥福をお祈りした。  

隣の塚口駅まで歩き、各駅停車高槻行きに乗り、先頭車の最前部に陣取る。名神高速をくぐったときにブレーキをかけ、あの現場を無事に通過するのを見届けた。

東海道本線神戸方面からの各駅停車JR東西線経由松井山手行きに合流し、尼崎には、ほぼ同時に到着した。乗り換え時間や所要時間を増大させないJR西日本の"お家芸"である。  

■老朽化と風化

8年後の2013年8月3日15時頃、再び事故現場へ。エフュージョン尼崎は、事故の影響なのか、外壁のレンガが少し欠け、2階ベランダの傷みが目立つ。2002年11月に完成し、まだ10年ちょっとしかたっていないのに、老朽化が進んでいたのだ。2006年にJR西日本が100%の所有権を取得しており、今後は慰霊や鎮魂の場として、整備を進めるものと考えられる。

第1新横枕踏切は、踏切を更新し、柵も元の黄色に戻されていた。私は柵の塗装変更が残念だ。柵を朱色のままにして、後世に"無言"で語り継がせる役割を担わせてほしかった。

付近のお地蔵さんは現存し、お菓子、お花、水などお供え物が並べられ、お線香をあげることもできるので、慰霊碑と化している。

前回訪れたときは、街全体が落ち着かない様子だったが、今回はその逆。

第1新横枕踏切で警報機が鳴り、遮断機も片方下りているにもかかわらず、自動車が無謀な横断をして先へ急ぐ。スピードも結構出しており、危険極まりない。

その姿を見ていると、時間の経過とともに、風化が進んでいる印象を受け、愕然とした。御遺族、被害者、関係者などにとっては、"何年たっても昨日の出来事"にしか思えないが、それ以外の人にとっては"そういえば、こんなことがあったね"という感覚なのか。

■黒光りの小さな微笑み仏像

「撮影は御遠慮ください」

私が首からデジタル一眼レフカメラを提げたまま、エフュージョン尼崎に入る際、警備員から指摘を受ける。JR西日本に取材申請をしていないので、報道関係者とみなされないのは、当然のこと。素直に従い、献花場(駐車場)へ向かう。

献花場では、飲み物、花などのお供え物が多い。敷地内の日付は、"永遠に「2005年4月25日」"のままなのだ。重苦しい空気は、永遠に続く。

暗い雰囲気を和らげるかの如く、献花場に黒光りの小さな微笑み仏像が、この地に"永住"している。犠牲者の笑顔を一体の仏像に込めたように映る。御遺族や負傷者にとって、在りし日の大切な人を思い浮かべる癒しとなるのだろうか。

私は仏像に手を合わせ、犠牲者の御冥福をお祈りした。

■ブレーキをかけず、あのカーブを通過

塚口から16時31分発の各駅停車高槻行きに乗る。前回と同じく、先頭車の最前部に立つ。

20代の運転士は、50km/hを越えたところで、マスコンハンドルの操作を力行(加速)から惰行に変え、ブレーキをかけず、事故現場を通過した。以前は猛然とダッシュしたあと、ブレーキをかけて通過していたが、現在は力行時間を短くしても、所要時間が変わらず、加えて消費電力も削減できるという、「エコ運転」に変わっていた。

(Railway Blog.「JR西日本」より転載。一部、加筆、修正しています)

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