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大手芸能プロダクション「ジャニーズ事務所」の所属メンバーに対する、創業者のジャニー喜多川氏(2019年死去)の性加害疑惑が注目を集めている。3月にイギリス公共放送「BBC」が特集番組を放送したほか、4月には元「ジャニーズJr.」で歌手のカウアン・オカモト氏が告発会見を開いたことがきっかけだ。
ジャニーズ事務所の設立は1965年。まさに「ジャニーズ」という名前の男性4人グループ(以下、初代ジャニーズ)のマネジメントをするために生まれたが、その同年に喜多川氏からの性被害を訴える声はその当時から出ていた。
喜多川氏がビジネスパートナーから訴えられた際に、法廷で性被害を受けた男性も証言していた。また、初代ジャニーズの元メンバー自身も、少年時代に喜多川氏から性被害を受けていたことを著書で主張している。
長く「なかったこと」にされてきたジャニーズ事務所に対する訴えや疑惑を振り返ろう。
※この記事には性被害に関する記述があります。読まれる際はご注意ください。
■「夢のお城」だった喜多川氏の家での体験とは?
初代ジャニーズのメンバーだった中谷良氏の1989年の著書『ジャニーズの逆襲』(データハウス)には、初代ジャニーズのメンバーと喜多川氏の出会いが描かれている。
それによると、朝鮮戦争が終わって5年後、1958年のある日。小学5年生だった中谷氏が、友人たちと明治神宮にある米軍基地に入り込んで、ラジコン飛行機を飛ばしていると、20代後半の男性から声をかけられた。
「ぼくたち!何してるんだ。こんなところで遊んでいるとしかられるよ」
アメリカ大使館に勤務していた喜多川氏との出会いだった。当時としては珍しかったハーシーズのチョコレートを中谷氏らに分けた上で、米軍施設のワシントンハイツ(現在の代々木公園周辺)にあったアパートの1室に招きいれてくれた。そこはたくさんのお菓子やゲームがたくさんある「夢のお城」だったという。中谷氏たちは後に初代ジャニーズのメンバーとなる3人とともに喜多川氏の部屋に入り浸るようになった。
そのうちのある日、喜多川氏と2人きりで部屋にいるとき、当時11歳だった中谷氏は喜多川氏から性的なスキンシップを受けたという。『ジャニーズの逆襲』の中で以下のように振り返った。
<ジャニーさんは、私の股間をズボンの上から執拗にさすってきたのです。「何するの、ジャニーさん。何か気持ち悪い」「いや、気持ち悪くなんかないだろう。気持ち良いはずだよ。こうすると」ジャニーさんは、ニヤリと意味ありげに笑って、ズボンの中から私の男性自身を探ったのです。>
後に初代ジャニーズになる3人の友人たちと話し合ったところ「どうやら全員、されたことに差はあれど、被害者だということが判明」したという。しかし、「変なおじさんなんだな」と笑う程度で、当時は被害者意識がなく、その後も喜多川氏による性的な行為は続いたと明かしている。
やがて中学生になった4人は1961年、映画『ウエストサイドストーリー』を喜多川氏と一緒に鑑賞。すっかり影響を受けた少年4人は、喜多川氏がコーチをしている「ジャニーズ少年野球団」にならって「ジャニーズ」という名前のグループを組むことになった。初代ジャニーズの誕生だ。見よう見まねでダンスレッスンをしていた4人に、喜多川氏はタレント養成所「名和新芸能学院」を紹介したという。
■「ジャニーさんにイタズラをされたことがあります」法廷で証言が出ていた
名和新芸能学院に所属して歌やダンスの特訓をしながら、初代ジャニーズの4人は1962年にテレビデビュー。人気が上昇してきた矢先の1964年、初代ジャニーズは大手芸能事務所「渡辺プロダクション」(通称:ナベプロ)に移籍。
翌1965年に喜多川氏が代表を務めるジャニーズ事務所が正式に設立される。しかし、まさにその年、喜多川氏と初代ジャニーズの4人は訴訟を起こされることになった。
名和新芸能学院の名和太郎学院長がレッスン料などが未払いとして「立替金請求等」の訴えを東京地裁に起こしたのだ。その中で、喜多川氏の性加害についても追及されることになった。
竹中労氏による1968年7月発行の単行本『タレント帝国―芸能プロの内幕』(現代書館)には、以下のように書かれている(※原文は漢数字)。
<事件の内容は、1962年4月1日から同64年6月28日までのジャニーズの名和新芸能学院におけるレッスン料、宿泊料及び食費、62年3月15日から64年6月末までのジャニーズの下宿料、交際費など合計270万6298円を弁済要求するというものである。“立替金請求等”の「等」とは、ジャニーが学院内でおこしたワイセツ事件を指す。はじめ、原告名和太郎は、金銭問題をぬきにして、ワイセツ事件だけを提訴したところ、被害者(ジャニーズ)の直接の訴えがなければ受領できないと却下された。そこで、弁護士と相談の上で立替金請求等事件としたのだが、270万6298円は領収書、または支出明細(伝票)があるもののみについての請求額である>
この本によると名和氏側は、初代ジャニーズ4人が喜多川氏から性被害を受けていたと主張するも、4人はいずれも法廷で「憶えていません」などと否定した。
ただし、かつて名和新芸能学院の生徒だった22歳の歌手が「ジャニーさんにイヤなことをされたという話は、あおい君(編註:初代ジャニーズのあおい輝彦)自身の口からきいてます。ぼく自身も、当時十七歳でしたが、ジャニーさんにイタズラをされたことがあります」と法廷で証言したと綴っている。
■初代ジャニーズをめぐる性加害疑惑、裁判では認定されなかった
その後、『女性自身』1968年10月21日号には、同月3日の東京地裁判決を報じる記事が掲載されている。それによると、「被告・喜多川ジャニーは原告に対し、金61万4千819円(その他)を支払え」と名和氏側への賠償を命じた。判決は「被告・喜多川ジャニーが被告・中谷ら四名のうち、だれかにワイセツ行為をしたとかは、(中略)被告・青井輝彦らを尋問の結果、その認定を左右できる証拠はない」というものだった。
その後も裁判が続いたが、名和氏側の敗訴で終わった。名和氏側の主張は「二審では認められず、上告したものの、棄却されてしまった」と、『週刊文春』2000年1月27日号には書かれている。
この訴訟中、喜多川氏は初代ジャニーズらへの性加害疑惑を一貫して否定していた。『週刊サンケイ』1965年3月29日号には、記者の質問に憤るシーンが掲載されている。
<「ボクがいったいなにをしたというんです。あんまり失礼だ。そんなことを言われてはボクとしても覚悟がある」と、すわって話していたが、顔を蒼白にして突然立ち上がった。>
ハフポスト日本版は今回、ジャニーズ事務所に対して初代ジャニーズらへの喜多川氏の性加害疑惑について調査する予定があるかを質問した。「5月14日に発表させていただきました通り、個別の事案についての回答は控えさせていただきます」という返事だった。
■ジャニーズ事務所によって「テレビや雑誌の報道もコントロールされていた」と松谷創一郎氏は分析
ジャニー喜多川氏の性加害疑惑は2023年になって突然、降ってわいた話ではなかった。ここまで見てきたように、1960年代のジャニーズ事務所の黎明期には裁判でのやり取りも、当時の週刊誌や単行本に掲載されていた。裁判で性加害について認定されることがなかったこともあり、その後、大きく問題視されずに終わってしまった。
1980年代にはアイドルグループ「フォーリーブス」に所属していた北公次氏、初代ジャニーズに所属していた中谷良氏が告発本を出版。いずれも、喜多川氏による性被害があったと主張した。さらに週刊文春が1999年に報じた喜多川氏による「セクハラ行為」については、「その重要な部分について真実」と認定した東京高裁の控訴審判決が2004年に確定している。
それにも関わらず、ジャニーズ事務所は多数のアイドルグループを抱える芸能事務所として君臨してきた。なぜ50年近くも喜多川氏に関わる疑惑が見過ごされてきたのか。
芸能界の事情に詳しいジャーナリスト・松谷創一郎氏は、ジャニーズ事務所が自社タレントを出演させるかどうか、取材に応じるかどうかという決定権を盾に、「テレビや雑誌の報道もコントロールされてきたことが背景にある」と語る。
ただし、ネット上のコンテンツの波及力が強まる中で、ジャニーズ事務所のメディア支配も崩れつつあると分析。50年以上前の名和新芸能学院での性加害の問題についても、再調査の必要があると指摘した。
松谷氏との一問一答は以下の通り。
――『タレント帝国』ではジャニーズ事務所の黎明期から、ジャニー喜多川氏による性加害に関する報道があったことが記載されています。これを読んで、どのように感じましたか?
この話は他の本でも読んでいたので、大枠の事実関係についてはとくに驚きはありませんでした。ただ、詳細に書かれている部分は興味深かったです。たとえば初代ジャニーズを新芸能学院からナベプロが引き抜き、それで裁判になったプロセスなどです。
なかでも、金銭トラブルの裁判が性暴力事件として受理されなかったからだとする記述は、1999~2004年の『文春』裁判を連想させます。これもジャニー喜多川氏とジャニーズ事務所が原告の名誉毀損裁判であって、性暴力事件としてではありませんでした。法的不備が1960年代からジャニー氏の性加害問題を放置していたことを意味します。
しかし、もし第三者委員会等で本件を調査するのであれば、この50年以上前の問題も押さえる必要があると考えます。
――ジャニー喜多川氏による性加害疑惑に関しては、今回のBBCの報道とカウアン・オカモト氏による告発の以前にも、1960年代の『タレント帝国』などの報道や、元所属タレントによる告発本も出ていました。これらが問題視されずに、ジャニーズ事務所が約50年間にわたってテレビに君臨してきた背景には何があると考えられますか?
その背景には、メディアとともにかたちを変えてきた芸能界(芸能プロダクション)があります。芸能界の大きな区切りは、1960年前後と2020年前後にあります。
前者である1960年前後とは、テレビが急速に普及し、映画が急速に斜陽化する時期です。映画産業のピークは1958年で、渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)が法人化されたのは1959年です。1959年とは、皇太子(現上皇)の成婚パレードの中継によってテレビ受像機がかなり普及した年として知られます。大手芸能プロダクションのナベプロは、音楽を中心としてこの時期から発展します。黎明期だったテレビを牛耳り、まさに一強として君臨していました。ジャニーズもこの時期にナベプロ傘下であり、法人化したのは1975年とかなり後です。
ジャニーズの方法論は、60~70年代前半まで栄華を極めたナベプロのそれが少なからず踏襲されています。問題化しなかった背景には、1960~2020年頃まで、60年間続いたマスメディア体制があると捉えられます。テレビと雑誌がマスメディアとして大きな役割を持ち、インターネットメディアがまだ強い力を持っていない時代だったからです。そこで小さくない国内マーケットでシェアをいかに獲得するか、熾烈な競争が繰り広げられていました。
そこではコンテンツを担保にテレビや雑誌の報道もコントロールされるようになりました。新聞も雑誌を持っているので、まったく無関係ではありませんでした。一部の雑誌でもジャニーズ事務所の圧力について書いたところ、そこから10年以上、取材を許されない状況が続いたことがあったそうです。
具体的には、1971年に日本テレビが『スター誕生!』を始めてナベプロ一強時代は終わり、70年代はホリプロや田辺エージェンシー、バーニングなどが競争を繰り広げます。ナベプロのマネージャーが独立してアミューズを創業し、ドリフターズを抱えるイザワオフィスも暖簾分けで誕生します。そのなかで、ジャニーズ事務所も独立して法人化しました。
ジャニーズがその勢力を固めたのは、SMAPがブレイクした1990年代中期以降です。90年代中期から後半にかけて、TOKIO、V6、KinKi Kids、嵐と立て続けにデビューします。音楽産業の最盛期は1998年ですが、ジャニーズはこの時期を押さえたのです。
『文春』報道があり、裁判も起きたのは、このピーク期の1999年でした。所属タレントが逮捕された際に「○○メンバー」とされたのは2001年、『文春』裁判の高裁判決が確定がしたもののさほど報じられなかったのも2004年です。ジャニーズ黄金期でした。それ以降レガシーメディアの斜陽が徐々に進みます。しかし、テレビや雑誌はそこでさらにジャニーズにすがります。それによって、結果的にジャニーズのメディア支配は強まっていきました。
ジャニーズ事務所はいまだにCD販売にこだわるなど、レガシーメディアに最適化して日本のエンタテインメント市場を攻略しました。しかし、BBCの報道が日本でも流通するようになり、YouTubeで中田敦彦氏の解説が500万回以上も視聴され、さまざまな報道のアーカイブもネットに残ります。ジャニーズのメディア支配が、ネットの波及力によって崩れてきているのが現在なのだと捉えています。
【参考文献】
・『週刊サンケイ』1965年3月29日号「“ジャニーズ”売り出しのかげに」
・『女性自身』1967年9月25日号「ジャニーズをめぐる“同性愛”裁判」
・『女性自身』1968年10月21日号「同性愛裁判に四年ぶりで結論!」
・『週刊文春』2000年1月27日号「“ジャニーズ裁判”元タレントはなぜ「偽証」した」
・竹中労『タレント帝国―芸能プロの内幕』(現代書館)
・中谷良『ジャニーズの逆襲』(データハウス)
・小菅宏『異能の男 ジャニー喜多川: 悲しき楽園の果て』(徳間書店)