「仏教ブーム」なる、少しばかり奇妙な言葉を耳にするようになって久しい。
確かに、書店にはお坊さんの書いた本や、仏教の解説本などがズラリと平積みされているし、雑誌などでも、お寺や仏像を特集したものがやたらと目に入ってくる。お寺での坐禅体験や、精進料理教室なども大人気だと言う。さらにこの秋には、爆笑問題が司会を務め、毎週、お坊さん数名をメインゲストに招いて、仏教にまつわるあれこれを語ってもらうという「ぶっちゃけ寺」なるテレビ番組もスタートした。(テレビ朝日にて毎週月曜深夜0時15分より放送中)
いずれも、少し前には想像することもできなかったような事態ではある。
しかし、これらの動きに「ブーム」という言葉をあてがうことには、私は、若干の疑問を感じるのだ。
近年乱用される「ブーム」という言葉には、「一過性のもの」というニュアンスが加えられているように思う。ほんの短い間だけもてはやして、飽きたら見向きもしなくなる......。最近の「○○ブーム」のほとんどが、そのような性格を持っているように見受けられる。
これらはすべて、ブームの対象を、「自分」というものと切り離して見ているからこそできる所業だ。いわゆる「流行語」も、「流行ファッション」も、「流行アイドル」も、すべて自分の「外側」のものだからこそ、もてはやしたり、飽きたり、見向きもしなくなったりができるのだ。
しかし、「仏教」というものを、それら一過性のブームと同等に扱うのはどうだろうか。仏教の性格上、そんなことはできないようになっていると思うのだが。
そもそも、どうしていま、仏教にまつわるあれやこれやに関心を寄せる人々が増えているのか、ということを考えてみたい。
自身の話で恐縮だが......。実は私も、10年ほど前から、仏像というものに興味を持ったことをきっかけに、趣味として各地のお寺を巡っている。そのうちにお坊さんのお話や、お経の意味や、仏の教えそのものにも興味を持つようになり、一般的な解説書を買って読むようになった。それにしたがって、そういった趣味を持つ友人も周囲に増えていった。友人たちが共通して口にするのは、「お寺に行ったり、仏像を拝観したりしていると、心が落ち着く」ということであった。みな、仏教に「心の安らぎ」を求めているのだ。
なるほど、昨日まで信じていたものが、目の前で次々と崩壊を見せていくこの不安定な時代、お寺という「非日常」の空間に拠りどころを求める人が増えているというのは、ものすごくわかりやすい話ではある。
確かに、お寺に行って、お坊さんの説法や、荘厳な響きを持つお経にじっくりと耳を傾けている間、また、仏像と心静かに対峙している間は、日常の雑事から離れて、すっかり穏やかでいられることだろう。自分自身を振り返ってもそれはうなずける。
しかし。その効果は、そのままでは決して持続しないのだ。ひとたびがやがやとした日常に戻ってみれば、お寺で味わった心の安らぎなど、あっという間に雲散霧消してしまう。
仏教を自分の「外側」に置いたままで楽しむような「ブーム」的な関わり方では、どうしたって限界があるということだ。最終的に、仏の教えを自分のものとし、そこを「日常」として生きていくことによって、自身の「内側」に変化をもたらしていかないことには、真の安らぎの存在に気づくことはできないのだ。
お寺や仏像に興味を持ち、そこに「心の安らぎ」を求めてきた人々は、遅かれ早かれ、その事実にぶち当たることになる。そこでようやく、仏教との関わり方を、自ら意志を持って、少しずつ変化させはじめるのだ。
この「変化」がミソとなる。
ところで、仏教は「自灯明(じとうみょう)法灯明(ほうとうみょう)」を説く宗教だ。お釈迦さまの生前最後の教えとされるこの言葉は、現代語に訳せば、「よく整えられた自らを拠りどころとし、正しい教えを拠りどころとすること」ということになる。(広辞苑より)
この「自灯明」こそが、仏教というものの最大の特色だ。
つまり、仏教は「外側」の何かを信じていく宗教ではなく、自らの「内側」の仏性に目覚めていく宗教ということができるだろう。自分の内側に「仏」を見出し、そこを最大の拠りどころとして生きていく。その方法を説いたものが仏教なのだ。
仏教がひとりひとりの「内側」の変化を求め、それを促していく性格を持つものである以上、それが一過性のブームなどで終わるはずはないのだ。
現代の日本で起こっていることは、「仏教ブーム」などではなく、「"仏"としての自己への目覚め」、その萌芽、そのものなのではないだろうか。
外側に「仏」(価値)を求めるのではなく、正しい教えによって整えられた自分自身を「仏」という名のともしびとして、力強く歩んで行こうとしている人々が増えている。
なにも「仏教徒」になる必要はない。ただ、ひとりひとりが、一過性の満足なんかではない、揺らぐことのない本当の価値を自身の「内側」に見出し、そこを骨子として、あたらしい世界を創り上げていく―― そんな自灯明的な生き方は、これからの時代、大いに求められているように感じるのだ。
変化はすでに始まっている。