2045年3月までに、放射性物質を取り除く除染に伴い発生した「除去土壌」を福島県外で最終処分することが法律で定められている。
もし、あなたの住む町が除去土壌の受け入れを検討しているとしたら――
あなたは「賛成」と「反対」どちらの意を示すだろう?
この除去土壌の最終処分をはじめとした、福島の復興や環境再生をめぐる課題について、現地で見聞きし、考え、発信してもらうことを目的とした『福島、その先の環境へ。』ツアー2023が開催された。
東日本大震災および東京電力福島第一原子力発電所事故から12年。福島の今と未来について、私たちは何を知り、何について考えるべきか。総計162人が参加したツアーを取材した。
第一原発事故は「人災」。二度と繰り返してはならない。
遡ること3ヶ月前。6月10日に環境省主催の『福島、その先の環境へ。』次世代会議がおこなわれた。同会議で、大学生や若手社会人が福島の復興や環境再生をめぐる課題について学び、課題解決に資するオリジナルツアーを企画。
そして9月2日(※)、ついにツアーが開催された。「地域・まちづくり」「福島の食」「新産業・新技術」の3テーマに沿って用意された6本のツアーには、中学生から社会人まで、若年層を中心に総計162人が参加。最終日には座談会もおこなわれた。
※ツアーコースによっては、9月1日から実施
本記事では、「生きる福島」と名付けられた地域・まちづくりツアーの様子を伝えたい。
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9月2日。残暑というには厳しい炎天下。額に汗を浮かべながら、続々とツアー参加者が集まってくる。なかには、見覚えのある次世代会議メンバーの姿も見える。
「おはようございます」
運営スタッフと挨拶をし、足取り軽く大型バスに乗り込む参加者たち。時刻は11時20分。バスが出発し、最初の目的地「東日本大震災・原子力災害伝承館」へ向かう。
伝承館は福島第一原発から北に3kmほど離れた、双葉町の沿岸部に位置する。地震と津波、原発事故による複合災害で、とくに深刻な被害を受けた地区に建てられている。
バスに揺られること約1時間半。国道6号線で浪江町を抜けると、まもなく目的地に到着。降車すると、芝生が一面に広がっている。その奥に、晴天の澄んだ青と鮮やかなコントラストをなす白い現代風の建物がある。伝承館だ。
館内に入ると、シアターに通される。1967年、高度経済成長期の真っ只なか、国の原子力政策のもと始まった発電所の建設。そして、2011年の東日本大震災および原発事故、住民の避難生活――。原発とともに歩んできた福島の歴史を振り返るムービーが上映された。
地震や津波の被害をとらえた生々しい映像に釘付けになる参加者たち。その横顔は真剣だ。上映が終わると、展示場へ移動。そこでは、未曽有の複合災害によって、福島で何が起き、人々がどのように復興と向き合ってきたか。その歴史をさまざまな資料を通じて伝えている。
一人の参加者が、とある展示物の前で足を留め、難しい表情を浮かべている。その目線の先にあるのは、「第一原発事故は、対策を怠った『人災』」と記された資料。
「原発事故に対して『想定外』という言葉が度々聞かれた。しかし、東京電力や規制当局による津波などへの備えが不十分だったことは、各事故調査報告書からも明らかであり、このような事故を二度と起こしてはならない」
国会の事故調査報告書によると、福島第一原発は40年以上前の地震学に基づいて建設されており、その後の研究によって、建設時の想定を超える津波が起こり得ること、津波によって炉心損傷にいたる脆弱性を持つことが、繰り返し指摘されていたという。
「何度も事前に対策をたてるチャンスがあったことを鑑みれば、今回の事故は『自然災害』ではなく、あきらかに『人災』である」
防災・減災に向けた教訓を、どうにか未来につなげたい。この展示から、そんな切実な思いが伝わってきた。
「生まれ育った痕跡すらない」中間貯蔵施設を受け入れた、住民の複雑な感情。
あっという間に1時間の見学が終わり、次の目的地「中間貯蔵施設」へ向かう。
中間貯蔵施設とは、福島県内の除染に伴い発生した除去土壌等を、最終処分までの30年にわたり管理・保管する施設のこと。福島第一原発を取り囲むように、大熊町と双葉町にまたがり整備されている。
以前は、県内各地の仮置き場で土壌を一時的に保管していた。しかし除染が進むにつれて土壌の量が増え、仮置き場の数は1300ヶ所を超えた。その結果、復興の妨げになってしまった。
そこで県内各地に点在している土壌を集中的に貯蔵するため、中間貯蔵施設が整備された。同施設では、1400万m3にのぼる除去土壌を管理するため、1600ヘクタール(渋谷区の面積と同等)という広大な土地が使われている。
目的地に到着すると、開けた平地に大量に置かれた黒いフレコンバッグが(※)目に入る。その奥には、貯蔵された土壌を覆う青い遮水シートが広がっている。
※「フレキシブル・コンテナバッグ」の略称。主に農業や工業に用いられる袋型の大型容器
「フレコンバッグに詰められた除去土壌等は、草木などの異物と土壌に分別。その土壌を重機で固め、土壌に触れた水が漏れ出ないようシートなどで遮水したうえで貯蔵します」
除去土壌の貯蔵方法を説明する、福島地方環境事務所の服部さん。
「中間貯蔵施設は空間線量率が高いと思われる方も多い。しかし土壌を適切に処理・貯蔵して、施設周辺の空間線量率や地下水などの放射性セシウム濃度を測り、モニタリングしているため線量率は比較的低いんです」
中間貯蔵施設内を移動し、福島第一原発や施設一帯を一望できる小高い丘に来た。服部さんは眼下に広がる広大な敷地を見つめ、次のように話す。
「我々からすると、単純に『こういうところなんだ』と感じるかもしれません。しかし、この地で暮らしていた住民の方からすると、生まれ育った痕跡すらないほど、変わり果てた景色が広がっているのです。
住民の方々が苦渋の決断で土地を提供してくださったおかげで、中間貯蔵施設に土壌を集めることができ、復興が着実に進んでいった。そのことを知っていただきたい」
2000人を超えた、震災関連死。過酷な避難生活を乗り越え、まちづくりに挑む。
9月3日、朝8時半。昨日に引き続き、抜けるような快晴だ。強い日差しが降り注ぐなか、参加者たちがバスに乗り込んでいく。宿泊したホテルを出発し、向かう先は「双葉駅」だ。
駅に到着すると、双葉町役場職員の松原さんが出迎えてくれた。軽く挨拶を済ますと、さっそく町の説明を始める。
「双葉町は、去年まで住民がいませんでした」
福島第一原発から10km圏内に位置する双葉町へ避難指示が出されたのは、3月12日の朝7時。そこから2022年8月30日まで避難指示は続いた。
「約12年にわたる避難生活は過酷そのものでした。震災翌日、町役場ごと川俣町へ避難。しかし、北西向きの風によって放射性物質が同町まで飛散し、わずか1週間で再度の避難を余儀なくされた。
その後、約2000人の町民が福島を去り、埼玉へ避難。最初の2週間はさいたまスーパーアリーナで寝泊まりし、すぐに埼玉県内の廃校『旧騎西高校』へ移動。同校で2年9ヶ月におよぶ異例の避難生活を続けました。
その後、福島へ戻りいわき市で8年ほど避難生活をおくった。こうした度重なる避難は町民へ大きな負担を強いたのです」
特殊な避難事情は、他の市町村にも共通していた。原発事故による避難先の数は平均3ヶ所以上で、なかには5ヶ所以上を点々とした人も約2割いたという。とくに寝たきり患者や高齢者など、災害弱者への負担は大きく、東日本大震災における震災関連死(※)の死者数は2337人にのぼった。
※地震のあとの避難生活による体調の悪化などが原因で亡くなること
過酷な避難生活を経て、昨年9月に双葉町役場の主要機能を双葉町内に移転。12年ぶりの帰還を果たした。そして現在、同町には90人が暮らしている。
「いまだ双葉町のなかで避難解除された地区は限られ、面積でいうと全体の15%に留まります。さらに、うち10%は中間貯蔵施設として使われている。しかし、限られた土地を活かしてまちづくりを進めています」
双葉町では、「居住地」「被災伝承施設等の建設地」「産業用地」などのエリアに分け、整備していると松原さんは語る。
町の東側に位置する津波の被害が深刻だった沿岸部は、住民の心情的にも住むことが難しい。そこで、伝承館などの施設や産業用地として開発。さらに産業用地では企業誘致を進め、24社の立地が決定。うち17社はすでに創業しているという。
一方、西側に位置する居住区では、公営住宅「えきにし住宅」の開発を進めている。22年10月から入居開始し、現在30人ほどが暮らしている。
えきにし住宅には、移住者も多く住む。住民同士のコミュニケーション機会が増えるよう、玄関口を向かい合わせに設計するなど、工夫がなされているそうだ。
「双葉町の復興まちづくりは、まだまだ始まったばかり。今後も福島県内外にいらっしゃる町民の声を聞きながら、整備・開発を進めていきたい」
双葉駅前の開けた空き地を見つめながら、松原さんは語った。
2045年の県外最終処分に向けて、除去土壌の再生利用を進める
時刻は14時。ツアー最後の訪問先は「飯舘村・長泥地区」だ。
第一原発から北西に位置する飯舘村で唯一避難指示が続く長泥地区では、除去土壌の再生利用を進めるべく実証事業がおこなわれている。
中間貯蔵施設で管理・保管されている、1400万m3(東京ドーム11杯分)にのぼる除去土壌等は、2045年3月までに福島県外で最終処分することが法律で定められているのは、上述した通りだ。
では、この膨大な土壌をどのように処分するのか? そのヒントが、この長泥地区にある。
福島地方環境事務所の村山さんは、最終処分に向けて、土壌の「減容・再生利用」によって最終処分量をどれだけ低減できるかが重要だと話す。
この「減容」と「再生利用」では、条件や処理プロセスが異なる。
まず前者において、8000Bq(ベクレル)/kg以上の土壌を対象に、熱処理などの減容をしたうえで、県外最終処分をおこなう。減容処理される土壌は、全体の約1/4量を占めるそうだ。
一方で後者は、残りの3/4を占める8000Bq/kg以下の土壌を対象に再生資源化し、県内外の農地や道路整備などで再生利用する計画だという。
実際に実証事業の現場を見学させてもらった。
ヘルメットと手袋を装着して外に出ると、そこには農地が一面に広がっている。「長泥地区では現在、主に『農地盛土等造成工事』をおこなっています」と村山さん。
農地盛土等造成工事とは、除去土壌に含まれる異物を除去し再資源化した土を、農地のかさ上げ材として盛る。さらにその上を、放射能を遮るための土で覆い、農地をつくる工事のことだ。
震災前、豊かな田園風景が広がっていた長泥地区には現在、再生資材を盛土にしたトウモロコシ畑など、18.6ヘクタールにおよぶ広大な実証実験場が整備されている。
また、再生資材を使って栽培された農作物の安全性を確かめるため、試験用農地も設けてある。
この試験用農地で2020〜21年度に収穫された作物の放射性セシウムの濃度は0.1〜0.2Bq/kg。一般食品に関する放射性セシウムの基準値100Bq/kgを大きく下回る結果となった。
こうした実証事業は、除去土壌の最終処分に向けて、福島県外でも国民の合意を得ながら進めていく予定だ。
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2日間のツアーを終えて、改めて福島が背負ってきたことの大きさと重さを痛感した。一方で、復興と環境再生に向けて着実に歩を進める人々の強さや切実さも感じた。
来る2045年には、除去土壌を県外最終処分することが決まっている。
「僕自身は、地元の町が除去土壌を受け入れるとしたら賛成する。しかし、反対する住民も多くいるだろう。それは、福島の人がふるさとを大切にしているのと同様に、除去土壌を受け入れる側の人も地元の土地に愛着があるから」
ツアー後の座談会で、次世代会議メンバーでもある横田さんは、そう語った。
さまざまな立場の人々の思いが複雑に交差する、この課題は一筋縄ではいかない。誰もが納得する着地点を見出すことはできないかもしれない。けれど、少なくとも課題について知り、考え、議論を重ねることはできるはずだ。
最後にもう一度、問いたい。
もし、あなたの住む町が除去土壌の受け入れを検討しているとしたら、あなたはどう考えますか?
福島の環境再生に関する情報は、こちら。
除去土壌の県外最終処分に向けた取り組みに関する情報は、こちら。
写真:西田香織
取材・文:大橋翠