こんにちは。篠原肇(@HajimeShinohara)です。
私はこれまで、スポーツ、特にベンチャースポーツ(マイナースポーツ)に関する記事を寄稿・転載してきました。その際に、古典からの引用をやや多めに混ぜていました。
私は古典を重要だと考えています。ケンブリッジを訪れた高校生に「学ぶべき教科は何か?」と聞かれて、理系の学生相手に「古典、特に漢文と倫理」と答えるくらいです。
中には「古文漢文なんて無駄だから廃止して、プログラミングにでもしたほうがいい」という意見もあります。もちろん今後の発展のことを考えると、プログラミングも出来た方がいいとは思いますが、 残念ながら、古典教育を廃止してまでプログラミングを教えろ、というのは思いません。
また、よくある問いである「古典なんて何の役に立つのか?」という質問に対し「教養だから」というのも期待されているであろう答えにはなっていません。
実質的な効果の説明が説得力を増します。
今回はその古典の効果をまとめたいと思います。なお、本文は、教養を語ることができるほど、教養が深くないと感じている20代の、哲学専攻でもなく物理学専攻の筆者が思うことを書いているため、至らぬ部分は多々あるかと思いますが、ご理解いただければ幸いです。
本質が書かれている
物理の法則は、数式であらわされる状態を発見とするのであれば、歴史は数百年ほどでしょう。それらの上に現在の物理学は成り立っています。発明の多くは、それらの応用になっています。
これに対して、古典として残っている書物で、現代でも読まれているものは紀元前のものまであります。歴史的に見て前者の10倍以上の時間を経ています。
これは言い換えれば、人間の本質的な部分は、現在の科学技術の発展よりも先に見通されていたことになります。
様々な本や新しい技術やアプリを見ればわかりますが、出ては消え、出ては消えを繰り返していきます。それでも残っているということは、時代や文化にかかわらず人間の本質であると言えるでしょう。故事成語なども同様です。
先行研究
例としては、少し業界的で申し訳ありませんが、一般的に研究においては、Googleが提供する論文検索エンジン「Google Scholar」のトップページには、巨人の肩の上に立つ"Stand on the shoulders of giants"と書いてあります。
これは、地平線を遠くまで見渡せるのは、あなたが背が高いわけでも、特別目がいいわけでもなく、巨人の肩の上に乗っているからだ。という話に基づいています。転じて、遠くを見渡すには、「先人の築いた礎=巨人」をうまく使う必要があるということになります。
研究においては、現状を把握するには、先行研究を把握する必要があります。これに対し古典は言ってみれば「人生の先行研究」と言えるでしょう。
そう考えれば、古典を読んでおくのは人生・人間を把握することになります。
何を読めばいいのか?
何を読むのかは非常に重要です。古典を古い書物ととらえた場合、たいして役に立たないものも多いでしょう。そもそもそういう本はなかなか残っていないと思います。
研究論文を読むときは、被引用数が役に立ちます。現状を把握するためのレビュー論文もいろいろあります。これに対して古典では、おすすめな古典を紹介している本がいろいろあります。
こういうものから読み始めるのがいいでしょう。
例えばこの本では、様々なカテゴリーの名著を理工系の教授が選んだ古典集です。
- 作者: 鎌田浩毅
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
- 発売日: 2010/11/12
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少なくとも、名著と呼ばれるものには何かしらの理由があります。
何十か国語にも翻訳されているものは、その名著が世界中で読まれるべきだと歴史の中で判断されたためです。これは言ってみれば、何十か国語にもわたるアマゾンレビューが週十万レビュー数あって、星平均が4.5を超えている感じでしょう。
さて、以上は、表現は違えど、古典に関しての説明ではよく見かけた話かと思います。これより以下が、私が上記に加え、考えているところとなります。
そもそも「古典」の意味
そもそも「古典」の意味とは何でしょうか。辞書ではこうなっています。
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1 古い時代に書かれた書物。当代・現代からみて、古い時代に属する書物。「鴎外や漱石も若者にとっては古典なのである」
2 学問・芸術のある分野において、歴史的価値をもつとともに、後世の人の教養に資すると考えられるもの。多く、著述作品についていう。「国富論は経済学における古典である」
3 芸能の世界で、近代に興った流派に対し、古い伝統に根ざしたもの。「古典舞踊」
4 古くからの定め。古代の儀式や法式。
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おそらく、一般的な意味での古典は1を指していることが多いですが、私が読んだ方がいいといっているのは2のほうで、こちらの方が重要です。
古くてももはや存在していたことを忘れられているようなものを読んでも意味はないでしょう。
ところで、古典は英語ではClassic となります。このクラシックは日本では音楽で利用されることが多いですが、この意味は何でしょうか?
1可算名詞
a一流の作品,古典.
b大文豪,大芸術家.
2a可算名詞 (ギリシャ・ローマの)古典作家; 古典作品.
b[the classics] (ギリシャ・ローマの)古典; 古典語.
3可算名詞
a(特定分野の)権威書,名著.
b代表的なもの,模範となるもの.
4a可算名詞 伝統的(に有名な)行事.
b=classic races.
5可算名詞
a伝統[古典]的な(スタイルの)服[車,道具(など)], はやりすたりのない(スタイルの)服.
b《米口語》 クラシックカー 《1925‐48 年型の自動車》
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このように、古いという意味よりも、他の模範となる代表的な一流の名著・作品という意味あいが非常に強いです。日本語の訳では古典に「古い」という文字が入っていることから、古臭いという意味を持たれることが多いようですが、本来の意味はこちらのほうでしょう。
よって古典を「古いもの」ととらえるよりは「歴史上の殿堂入り作品」ととらえた方がより適切であると言っていいでしょう。
これは本ブログでたびたび紹介している「ベンチャースポーツとマイナースポーツ」に通づるところがありますが、イメージによる先入観とは、かなりの影響力があります。
先人の知恵
諸説ありますが人類の累計人数は約500億人と言われています。これだけいれば、あなたが直面している問題と、本質的に同じ問題を経験した人がいるんじゃないでしょうか?
その人たちが本を書いているとは限りませんが、一般的に新しいことや革新的なことを始めたフロンティアのほうが問題にぶつかっているでしょうし、そのような人が書いた本は得るものが多いでしょう。
確かに理不尽なことがあったときには、「私は世界一不幸な人間だ」くらいに思うかもしれません。
しかしながら、もっと悲惨な、想像をするのも憚られるようなエグい体験をした先人が何か残しているかもしれません。そういう本を読んでいたとすれば「なんだ、あんな人でもこうなっていたんだから、自分なんてまだまだだな」と思うことができそうです。
自分がいかに井の中の蛙であるかどうかがまざまざと思い知らされます。世の中には凄い人が多すぎることを実感し、調子に乗ることもなくなるでしょう。
グローバル人材
ここで言いたいことは2つです。ひとつは実践的な知識で二つ目は時空の概念を超えていくことです。
実践的な知識の効果
まずは実践的な知識の効果です。例えば、ギリシャ神話を全部読んでいた関係でギリシャ人に感心されるほど詳しかった関係で、以後仲良くしてもらえることがありました。何か国語にも翻訳されているものは、他国の人も読んでいる可能性が高いため、話題に困らなくなることもあるでしょう。こういった実利的な効果もあります。
時空の概念
もう一つは、時空の概念です。
世界では様々な大会や表彰が行われています。そういったものは星の数ほどあります。真剣に世界一を目指している人もいるでしょう。しかしながら世界一になったとしても、同じカテゴリーの世界一は大会毎にいます。世界的に注目されているものでも、ノーベル賞の表彰は毎年、オリンピックでさえも4年に1回は世界一が決まります。
表彰時や世界制覇時には、ニュースに取り上げられ一躍時の人となりますが、数年たてば、特殊な分野や国の事情を除けば、大半の人が忘れられていることでしょう。
これに対して、いまだに残っている古典は、時間がたっても、忘れられていません。歴史上には様々な分野で偉業を残している人たちの文章が残っています。いつの時代にも有効で名著とされていた本には、何かしらの理由があります。文化を超えて、時を超えて、学ぶことがあるはずです。
昨今では、グローバル人材の重要性が説かれています。グローバル人材の定義は場所によって様々ですが、一般的に言えば、環境問わず成果を出せる人という意味合いが強いようです。
古典では、この現在言われているグローバル人材に加え、時の概念を追加した人たちでしょう。数十か国語に訳されている古典は、文化や言語、時をすべて超越した文章と言えます。今後数年たったからと言って、なくなることはないでしょう。
要約ではなく、全文、できれば原文を読んだ方がいい
仮に中身が大事な場合、要約を読めば効率的と思う人もいるでしょう。
私も効率主義なところはあるので、そう考えたこともありました。
しかし、全文の現代語訳、出来ることなら原文を強くお勧めします。特に気になる作者の自伝などはなおさらです。
理由はどんな偉人・超人でも意外と人間味があり、非常に親近感がわくためです。当然といえば当然ですが、要約だと、こういう要旨から外れる人間味の部分は省かれています。
例えば、こんな一説があります。
歴史上でも超人の部類に数えられる米100ドル札に肖像画が載っているベンジャミンフランクリンは、会議の際に、「あまりにも退屈だから、魔法陣を落書きして眠気に耐えていた。」そうです。
これには衝撃を受けて、カフェでKindleで読んでいたわけですが「え!?」と思わず声を出してしまいました。これほどの超人でも、会議中に眠くなって落書き始めるのか、となんとも親近感がわきました。
こういう人たちも、さらに先人の影響を受けているのがわかります。こういう状態を見ていて、親近感がわくと、図々しい勘違いとはいえ、
ただ教科書に載っている成し遂げた偉業や歴史上の偉人としてではなく、いつか超えることができるかもしれない人物
として認識できませんか?
また、私たちが歴史の延長上にあり、先人の知恵をふんだんに利用して巨人の上に立っている以上、超えられるかはどうかは別としても、どんな形であれ彼らを超えるために真剣に挑戦する義務があると、個人的に思っています。
フランス語やイタリア語ができる方は原本でも読めるでしょう。ラテン語のものも行ける人もいるんではないでしょうか?語学に自信がある人は挑戦してみてはいかがですか?
教養との相関
冒頭で「古典は教養だから学ぶべき」というのは、答えになっていないといいました。
ただ、このような古典をはじめとした経験の過程で、教養は自然と身についていくことでしょう。おそらく教養の深さと古典をはじめとした読書量には高い相関があるでしょう。そういう意味では、教養の深さで、間接的に、どれだけの見地を持っているのかを測るのは理にかなった方法と言ってもよさそうです。
関連リンク
本記事は、筆者篠原肇(@HajimeShinohara)の個人ブログの該当記事からの一部引用・転載です。