安倍晋三首相の著書『新しい国へ 美しい国へ』には、日本人について、「儒教から礼節を学び、仏教の禅から自らを律する精神を、そして神道からは祖先を尊崇し、自然を畏怖(いふ)するこころを学んできた。寛容なこころは、日本人の特質のひとつでもある」と述べる。ところが、少なくとも日韓関係においては、その「寛容なこころ」が見えない昨今だ。売り言葉に買い言葉が飛び交う。皮肉にも、2012年12月に安倍政権が誕生した後、両国の関係がよりこじれた感はぬぐえない。
朴槿恵(パク・クネ)大統領の自叙伝『絶望は私を鍛え、希望は私を動かす』には、2006年3月の訪日時に会った当時の小泉純一郎首相、安倍官房長官、麻生太郎外務大臣との出来事を紹介する。小泉首相との会談では、朴氏が、「両国関係は、独島(トクト、日本名、竹島)問題、歴史教科書問題、靖国神社参拝、慰安婦問題などが立ちはだかっており、前に進むことができていません。速やかに解決され、未来に進むべきです」として4つの問題を明確に取り上げたと明かす。また、当時の安倍長官や麻生大臣などの関係者に会うたびに、「在日同胞に地方参政権を保障してくれるよう促した」と述べた。
朴大統領からすると、上記の問題に何一つ解決の糸口が見えない中、単に顔合わせのために日本との首脳会談は行わない考えだ。安倍首相は上述の自著にて、自分の立場は「開かれた保守主義」と言うが、これらの懸案への解決には歩み寄ろうとしない。
日韓の首脳には互いに相いれない、並外れた「国家」主義が共通に流れている。朴大統領は「なぜ結婚しないのか」という問いに、「私は大韓民国と結婚した」と言えるほどの自国愛の持ち主だ。安倍氏は、「戦後の歴史から、日本という国を日本国民の手に取り戻す戦い」すなわち「日本を、取りもどす」というスローガンを掲げ、首相に返り咲いた張本人だ。
■ 庶民との感覚のズレ
両首脳とも庶民の感覚とズレているのも共通だ。普通の人々は、住む国や地域がどこであれ、自分の選択に基づき、行き来しながら楽しく過ごしたがる。それに対し、両首脳は自国愛やナショナリズムを煽(あお)り、個々人を「国家」の枠に嵌(は)めようとする。安倍氏は「個人の自由を担保するのは国家」と言い切り、朴氏は「もっぱら国民と国だけを見つめる」のが自分の初心だという。こうした「国家」優先の視点は、人間同士が国家の枠を超えて、自由に付き合おうとする感情を凍らせ、喜怒哀楽を素直にぶつけあうことをできなくする。
縦の序列を重視する社会は、おのずと、横とのつながりや国の垣根を越えた関係の実現に、内在的な限界を孕(はら)む。その限界を打破するためにも、重苦しい「国家」第一ではなく、開かれた「人間尊重」の視点が求められる。東日本大震災(2011年3月)やフェリーのセウォル号沈没事故(2014年4月)の犠牲者の死を前にしたとき、国籍を問わず人間としての悲しみが込み上げる。「晋三坊ちゃん」と「槿恵姫」だけの罪とは言えないだろうが、結果責任が問われる政治の世界では、理由はともあれ、この二人が「国家」主義を優先させ、日韓関係をこじらせた責任は免れない。
(2014年11月17日AJWフォーラムより転載)