日本でもハンセン病は、「業病」などと呼ばれ、患者たちは長い間差別され続けてきました。遺伝病とみなされることも多く、患者の家族や親族たちも差別の対象となるため、発病した患者は、家族から遺棄され浮浪生活を強いられることもありました。
19世紀末にハンセン病がらい菌による感染症であることがわかりましたが、かえって隔離の必要性が強調され、浮浪生活さえも許されず、ますます社会から排除されるようになっていきました。
日本では、20世紀初頭に浮浪患者を中心とする隔離・収容政策がスタートしました。1931年には全てのハンセン病患者の強制収容、絶対隔離を原則とする法律「癩(らい)予防ニ関スル件」が成立し、その病状にかかわらず、患者たちは一生施設から出られなくなりました。施設のいくつかは、多くの国と同様に海で隔てられた島などにつくられています。「癩予防ニ関スル件」は、戦後は「らい予防法」と名称は変わりましたが、その内実は変わらぬまま、治療法が確立し、新規患者がほとんどゼロになった後も、1996年に廃止されるまで存続しました。
療養所での生活は苛酷なものでした。時として重労働を課せられ、病状が悪化したり、作業中の怪我や二次症状によって重度の障害を負ったりした人たちも少なくありません。また療養所内では、施設の管理者たちによって裁判なしで一方的に罪が決められ、療養所内の監房に収監されることも認められていました。特に反抗的だと見なされた患者たちは、草津町にある国立療養所栗生楽泉園の敷地内につくられた「重監房」に送られました。「重監房」は二重に隔離・排除された施設でもあるわけです。冬は零下20℃にもなる場所で、暖房もなく、満足な食事や寝具も与えられぬままに、多くの患者が命を落としました。
日本にはいま国立私立を合わせて15のハンセン病療養所があり、約2000人の回復者が暮らしています。2001年にはそこに暮らす回復者たちが訴訟を起こし、長年の間侵害されていた人権に対する政府の賠償を勝ち取ったこともあって、現在の日本の療養所は経済面でも医療面でも、おそらく世界トップクラスの整った環境にあります。
日本の療養所の大きな特徴は、患者や回復者の手による陶芸や絵画作品、そして小説や詩歌、日記や手記などが膨大に残されていることです。中には川端康成に認められ、一般の文学雑誌に掲載された北條民雄の小説や、明石海人の短歌のように文学的にもレベルの高いものも含まれています。また、知識欲の旺盛な回復者も多く、失明し、指を失っても点字の書物を舌を使って懸命に読みとっている人もいます。
しかし、日本の施設には子どもの姿はありません。「らい予防法」のもとでは、患者たちには子どもをつくることが禁止されていました。施設内では患者同士の結婚は黙認されつつも、堕胎や断種手術が日常的に行われ続けました。日本の療養所に子どもの姿がない背景には、そんな歴史があったのです。すでに入所者の平均年齢は80歳を超え、いまだ差別が残されているために、療養所を訪れる回復者の家族も稀です。
彼らが残した多くの美術・文学作品は、家族との絆を断ち切られ、子どもをもつことができなかった彼らの生きた証しだったのかもしれません。また入所者の中には、語り部として、困難な状況にあっても、希望をもって生きることの大切さを伝える活動をしている人たちもいます。こうした作品や活動は、ハンセン病の現実と患者、回復者の強さを後世に伝える上でとても貴重です。