昨年暮れ、新潟県南魚沼市にある国際大学(IUJ)キャンパス内で性暴力事件が起こりました。その後に大学当局が取った対応を見ると、自らが掲げる高まいな教育目標とは裏腹に社会的責任を回避しようとするIUJの姿が浮かび上がってきます。
筆者注:このブログは、7月20日に国際大学が新たにプレスリリースを発表する前に書かれたものです。この発表が下に続くディスカッションにどう影響するかは、また時を改めて考察したいと思います。
朝日新聞の記事が暗示する四つの事実
2016年7月16日、朝日新聞デジタル版は、昨年12月に国際大学キャンパス内で起きた学生間のトラブルについて報じました。仮に記事の内容が全て本当だった場合、次のことが実際にあったと言えそうです。
事実1 IUJは、被ったとされる性暴力の責任を被害者本人へ押し付けようとした。
このことは、学長が調査委員らに送ったメール、また大学の弁護士から朝日新聞へ届いた回答から察することができます。
事実2 IUJは、即時追放の可能性をちらつかせて在学生へ沈黙を強いた。
このことは、1月10日付の学長のメールからうかがい知ることができます。また、よく見ると、弁護士による説明は、記事が描写したような威嚇があったこと自体を否定してはいないことが分かります。むしろ、威嚇は「当事者にさらなる被害が生じることを避ける」ことを目的として行われた警告なのであり、よってパワハラには当たらない、と正当化しているに過ぎません。
事実3 IUJが自発的に警察へ事件を通報し、あるいは被害者が通報の決心をするにあたって積極的に援助した形跡はない。
公平を期するためにいうと、これに関しては異なる事実があったかもしれません。ただ朝日新聞の記者が取材を通じてもそうした事実にたどり着かなかった、または何らかの理由で記事にしなかった、といった可能性は否定できません。
事実4 IUJの学長は、事実を解明するために学内に設置された調査委員会の業務に介入した。
このことは、学長のとった行動とその後調査委員らに送ったメールの内容から推察できます。
IUJのプレスリリースが抱える三つの問題
朝日新聞の報道に対し、IUJは7月19日に声明を大学のホームページに掲載しました。たとえこの声明をすべて文字通りに受け入れても、その内容には大きな問題が三つあります。
問題1 性暴力事件を 「主観的要素を排し調査において事実と認定しうる要素のみに」限って調査すると、それはたちまち被害者へ責任転嫁することへ繋がってしまう。
これは、本件が恐らくそうであるように、目撃者がいない場合特にに大きな問題となります。そもそも、性犯罪から被害者の主観的見地を排除してしまっては調査など成り立ちません。ここで不思議なのは、男子学生が「誘惑された」と説明しており、これが(私から見れば)全く主観的な主張であるにもかかわらず重点的に考慮されている、ということです。
また逆に、「調査において事実と認定しうる要素」に固執するあまり、例えば事件前の飲酒・酩酊などが目撃されただけで「事実」とされてしまっては事を悪化させるばかりでしょう。性暴力が関わる事件では、当事者の酩酊が同意欠如の正当化に利用されるようなことは絶対にあってはなりません。
問題2 犯罪事件においては、やみくもに「公正さ」や「当事者の保護」の確保に執心するとかえって重大な不正義を犯しかねない。
結局のところ、犯罪事件の被疑者が享受すべき「公正さ」や「当事者としての保護」とは、推定無罪を含む法の適正手続に他なりません。今回のように被疑者が修士課程に所属する二十代の成人男性である場合、それ以上特別な配慮が必要とは思えません。
推定無罪が現代刑事司法制度の大前提であることは確かです。しかし、人が無罪であると推定することと、犯罪事件の被疑者を法から匿うことは全く別です。後者には「隠蔽」や「司法妨害」といった別の呼び方があります。
一方、被害者への「公正」を期したり、彼・彼女を「当事者として保護」したりするためには全く異った配慮が必要です。積極的なサポート、援助、ケアなどは明らかな例ですが、少なくとも日本では、警察に通報しないよう促すことが性暴力被害者の「保護」に当たるとは到底思えません。もし被害者自身が何らかの理由で警察と関わりたくないのであれば、それに理解を示すことは大切でしょう。
しかし、日本の警察へ通報することを踏み止まらせるような説得は全く別問題です。詳細を聞く尋問があったり匿名性を失ったりするからやめなさい、などという向きは善意を履き違えているか何か利己的な理由でそうしている可能性があります。
ここで私が言いたいのは、IUJは犯罪対応上求められる「公正さ」や「当事者の保護」をあたかも校庭で喧嘩している児童を両成敗とするように扱ってはならない、ということです。
問題3 この件に関しては、IUJが何をもって「教育的配慮」重視としているのか非常に不明瞭である。
まさかとは思いますが、IUJのプレスリリースにある「教育的配慮」が、被疑者を捜査・起訴・刑罰に晒すことなく穏便に帰国させる措置を指している、ということはないでしょう。
(小児性愛行為に及んだ聖職者をカトリック教会が穏便に配置換えしたとされるスキャンダルを彷彿とさせます。)
また、ここでいう「教育的配慮」とは、性犯罪に遭わないためにはどう振る舞うべきで、飲みすぎたり挑発的になったりすれば暴力を受けても自業自得であることを被害者に理解させることではない、と切に願います。いうまでもありませんが、私たちが住んでいるのは21世紀です。
この一件におけるIUJの対応は、どうも的外れな「教育的配慮」に満ちているように思えてなりません。スキャンダルは隠せばよい、自己修正を図る動きへは介入すればよい、司法当局は蚊帳の外におけばよい、反対意見は抑圧すればよい − IUJは、自らが好んで「グローバルリーダー」と呼ぶ在学生を前にこんな価値観を体現してしまってよいのでしょうか。それとも、私がこう感じるのは何か重要なポイントを見逃したからでしょうか。
不利な情報のリーク
本件に関するIUJのトラブルはこれに留まりません。今この事件やIUJの対応について、様々な情報がフェイスブックやユーチューブに流出しています。私はジャーナリストではないので、そうした情報の真偽をチェックする立場にはありません。ただ、そこに示されている出来事は、もし本当だとするとIUJがこれまでしてきた行動や説明に照らして極めて不利な内容になっています。これでは私が上に挙げた三つの疑問をさらに深めるだけです。
こうした中、IUJは交錯する情報や憶測によって生じた不透明性を解消するよう積極的に手を打つべきです。解決策の一つとしては、例えばもう流出している文書については(必要に応じて黒塗りを施した)原本を開示し、あるいは誤りを正すような事実を公表する、などが考えられるでしょう。
最低限でも、IUJはリークされた情報が示す内容について独自の見解を表明すべきです。ここで重要なのは、リーク元探し、個人攻撃、魔女狩り、といったことではなく、事実解明にこそエネルギーを注ぐべきだ、という点です。
終わりに
正直なところ、私がここで表明した疑問点はただの推測に過ぎません。しかし、今の私には残念ながらこれらが非合理的な推測だとは思えません。なぜかというと、現時点で公に入手できる情報源が朝日新聞の記事とIUJのプレスリリースの二つに限られてしまっているからです。
このことは同時に、IUJのプレスリリースがいかに不十分であるかを物語っています。より誠実でオープン、かつ迅速で妥協のない、そして何よりもプロフェッショナルな対応を初めからしていれば、事後処理をもっと有効的に行うことができたでしょうし、そもそもこうした事態に発展する危険を未然に防げたことでしょう。
IUJはアジア有数のMBAプログラムを擁しています。現学長の加瀬公夫教授は、戦略的経営の専門家としてビジネススクールで教鞭をとられています。これは全く皮肉としか言いようがありません。
ディスクロージャー
2005年から2015年にかけて、私はIUJ客員教授として国際公法、国際人道・刑事法と国際武力行使法を講義しました。昨年末、IUJから2016年の春学期は私を客員教授として委託する予定がない旨通知がありました。(たとえ委託の打診があっても、今年は家族の事情により承諾することはできませんでしたが。)
私は件の性暴力事件の当事者とも、また少なくとも私の知る限り対応に関わったIUJ当局関係者とも全く面識がありません。今となっては、元客員教員だった第三者として、ただ心配しながら成り行きを見守る身です。