牛乳にうがい薬のイソジンをたらし、毎日飲めばがんが消える。ちょっと信じがたいそんな情報が、一部のがん患者の間に出回っている。考案者は西日本の医師で、信じた患者からほかの患者に広がる、ということも起こっている。
医師はどんな根拠で言っているのか。なぜ、不特定多数に勧めるのか。調べていくと、医師に自信を持たせた学術誌の安易にも見える編集姿勢にまで行き着いた。根拠薄弱な療法は、思わぬ健康被害を招く恐れも指摘されている。
■イソジン牛乳飲み続けるがん患者
「4年間、沃化脂乳液(ようかしにゅうえき)で生きてきたことを奪わないで」
2017年暮れ、関東地方の60代女性(以降、Aさん)は涙を流し、声を振り絞った。沃化脂乳液とはイソジンをたらした牛乳のことで、飲むとがんに効果がある、とAさんは信じていた。療法を提唱する医師が効果の客観的な根拠はないと認めている、と記者が告げたとき、Aさんのこらえていた感情が爆発した。
Aさんが肺がんを宣告されたのは、取材時点から5年ほど前。病院で治療を受け、いったんは良くなったものの、再発を繰り返した。迎えた次の年、病院医師から「使える」と聞いていた抗がん剤もすでに数種類使ってしまっており、残る療法はわずかという状況。必死でネットを検索し、見つけたのが、一部の患者団体などから「イソジン牛乳」を呼ばれるこの療法だった。
最初から全面的に信じたわけではない。「どうせこのまま闘病してもダメなのなら、試してみよう」という程度の思いだったという。飲み始めたときは、家族にも内緒だった。
しかし、飲用開始後、がんは再発しなかった。元気に仕事を続けるAさんを見て、周囲のがんを患う友人たちもイソジン牛乳を始めた。時を経て、イソジン牛乳はいつしか、Aさんが闘病を続ける上での大きな心の支えになっていた。
Aさんの体験は、他の患者がイソジン牛乳を信じるきっかけのひとつにもなっているようだ。
卵巣がんの患者会「スマイリー」代表の片木美穂さんはたびたび、イソジン牛乳提唱者の医師が実名で送ってくるメールを受け取っている。メールでは、イソジン牛乳は「沃化脂乳液」と名付けられ、「癌組織体を治療する事が出来ると想定される」療法だと紹介されている。そして、「極めて有効な結果を得た」として、Aさんから医師に送られてきた感謝のメールが、体験談のように転載されていた。
「信じる人がいるとは思わなかったのですが」
そう言いながら、片木さんは2017年9月、イソジン牛乳を信じかけた患者(以降、Bさん)から相談を受けたことを教えてくれた。
Bさんは関東の60代女性で、卵巣がん患者だった。複数の患者会に所属し、うちひとつのメーリングリストから、提唱者の医師からのメールが回ってきた。そこにあったAさんの体験談が、Bさんがイソジン牛乳で「治る」と希望を持ったきっかけだったという。
医師のメールは、イソジンを牛乳100㏄に1滴の割合で混ぜ、24時間冷蔵庫で寝かせたものを毎日飲むことを勧めている。Bさんもこの説明通りにイソジン牛乳を作ったが、いざ飲もうとして怖くなり、片木さんに電話した。そして、片木さんの助言に従い、飲むのをやめたという。
記者は2017年11月、片木さんを通じ、Bさんに取材を依頼した。だが、病状悪化のためお受け頂けなかった。飲食不能な状態が何日も続き、回復が見通せない状況だったという。そしてBさんは2017年末、亡くなった。
遺族は片木さんに、「イソジン牛乳を思いとどまらせてもらって良かった。当時、すでに食べ物がのどを通りづらい状況だった」と話したという。
■提唱者の医師「とにかく勧めているだけだ」
果たしてどのような根拠で、医師はイソジン牛乳を提唱し、広めているのか。2017年11月、西日本の地方都市を訪ね、話を聞いた。
この医師は、市内にビルを構える病院の80歳代の理事長だった。専門は整形外科で、病院でがん患者を診ることはないと話した。
それがなぜ、がんの治療法を提唱するのか。
「とにかく考えることが好きでなぁ」
大学卒業後、研究者の道に関心があったものの、父親の経営する病院で働くために帰郷。若い頃に学んだ細胞組織学の知識を元に、様々な仮説を考えるようになったという。
自らの考えを裏付けるための実験などは行わなかったが、1990年前後から、考えを論文にまとめ、学術誌に投稿するようになった。
「これがなぁ、さっぱり採用してもらえんのよ」
あるとき、採用を断られたある学術出版社から、「メディカル・ハイポッセシーズ」という学術誌の名前を耳にする。日本語に直せば「医療仮説」になるこの学術誌は、医学に関連して「考えたことを書く学術誌」だと聞き、そこに投稿した。
「論文を送ったら大歓迎で」「掲載料はとられた。ナンボか忘れたけど」
初の論文掲載が1992年。その後もメディカル・ハイポッセシーズに投稿を続け、計17編の論文を発表した。そのうち2002年に発表されたものがイソジン牛乳についてのもの。独自のがん理論に基づく治療法の提案だった。
論文はまず、がんは、細胞が細胞分裂を繰り返し、成熟していく過程で、細胞分裂が失敗して発生するものだと説く。失敗する原因は、細胞分裂で生まれる不純物だ、とする。
一方で、がんは十二指腸では「発生しない」(実際は少ないながら発生する)ことから、十二指腸の消化酵素が細胞分裂を失敗させる悪い物質を分解し、がんを防いでいると、論文では考察している。
イソジン牛乳の仕組みについて、「消化酵素を全身に広げたら、全身のがんが無くなるんじゃないかということ」と医師は説明した。
普通は腸内にとどまっている消化酵素を、ヨウ素の力で血液に送り込み、全身をめぐらせる。すると、酵素の力でがんが防げるのではないか。それを可能にし得るのが、ヨウ素と牛乳の脂肪が結びついた沃化脂乳液。つまり、イソジン牛乳という論理だ。
とはいえ、医師1人の「考え」だけでは普通、「治る」とは言えないはず。「論より証拠」の言葉の通り、実際に医療の世界では、「実際に人に試して有効だった」と確認されたものだけが、有効な治療法として認められている。
そうした根拠についても聞いた。
「記憶にあまりないが、5~6人は治った人はいる」
「彼らの主治医は沃化脂乳液(イソジン牛乳)で治ったとは言わん。抗がん剤とかで治ったと言うわけ」
「けしからんと思っとるね」と、医師は話した。しかし、患者が主治医の治療も受けていたなら、その治療で治ったと考えるのも自然だ。論理的に、イソジン牛乳だけで治ったと言い切ることができる根拠を、医師が取材に示すことはなかった。
医師は、イソジン牛乳療法を紹介するメールを、全国の「おそらく100団体を超えている」数の患者会に送り続けてきた、と説明した。情報を伝え聞いたがん患者が医師を訪ね、教えを請うこともたびたびあったという。「治った」というのは、そうした人々からの報告が根拠だと語った。
なぜ、自説を拡散するのか。医師は「がんが治る人が増えて欲しいわけや」と語る一方、患者が試すことで、イソジン牛乳ががんを治すかどうかの情報を得たい、という意図があることも認めた。
自らの考え以外に「根拠」がない療法を患者に勧めることへの責任の認識についても、聞いた。
「患者には必ず主治医がいて、相談すれば主治医がやめなさいと言う。それでも(イソジン牛乳を)やる人に期待している」。そして「エエことじゃないかもしれんね」とも話した。根拠のないまま患者に試す行為の是非については、「自分がしているわけではない。とにかく勧めているだけだ」と説明した。
■イソジン牛乳、専門家は「単なる空想と同じ」
こうした行為や考えについて、国立がん研究センター(東京・築地)のがん対策情報センター長として、一般向けにがんに関連する情報を発信している若尾文彦医師に聞いた。
若尾さんにはまず、十二指腸の消化酵素によるがん予防効果に関する研究を探してもらった。研究者向け論文検索サイトで調べた限りでは、イソジン牛乳提唱医師の論文以外はなかった。従って、この独自理論が研究者によって検証されたことはなく、「根拠」は医師の論文以外にないことになる。
その上で、医師の論文も、読んでもらった。
「仮説に仮説を重ねた非論理的な推論に過ぎません。それぞれの仮説を証明する実験データもなく、単なる空想と同じです。科学的根拠としての信頼度は最低のレベルと考えます」
そして、そうした仮説に基づいた療法を不特定多数の患者に伝えることの倫理的な是非については、「仮説を実証するために実施するということであれば、問題だと思います」と指摘。主治医の治療との併用で「治った」という「5~6人」のケースが、治療効果に対する根拠になるかについても、若尾さんは「根拠性があるとは言えません」と否定した。
がん専門家の視点に照らせば、全く肯定の余地がないイソジン牛乳療法。ただ、その理論は学術誌、メディカル・ハイポッセシーズに掲載され、医師自身、それで「自信が付いた」と語っている。
メディカル・ハイポッセシーズのサイトは自誌について、「従来の学術誌に拒否されるような過激な仮説に、発表の場を提供する」と説明する。出版元のエルゼビアは、多数の専門誌を出版する学術出版界の大手。日本法人から、英国にいるメディカル・ハイポッセシーズ編集者のメールアドレスを聞き、編集方針を尋ねた。しかし、送信から半年以上経っ9月現在、返信はない。
若尾さんは「学術誌もピンからキリまであることは、残念ながら事実。編集方針を理解して読むだけなら許容範囲ですが、悪意がないにしても、論文投稿者らに誤解を生むようなことがあれば、有害と考えざるを得ません」と批判した。
■「治りたい人の心をもてあそんでいる」
根拠の薄弱さが指摘される療法は、イソジン牛乳に限った話ではない。聞くからに荒唐無稽なものもある。
そうした情報を信じてしまうことについて、「患者は絶対に悪くない。どれだけ荒唐無稽なものでも、患者が信じること自体は絶対に悪くないのです。それだけ不安なのですから」と、卵巣がん患者会「スマイリー」代表の片木さんは話す。そして、そんな療法自体については「万が一、信じた患者が通常の療法をやめ、それだけに頼れば、とんでもなく危険な無治療状態を生み出しかねません」と指摘した。
イソジン牛乳を信じた患者がいたことについては、「患者の精神的な支えになったことはきっと、闘病にもプラスだったでしょう。それ自体はいいことです。しかし、提唱者が、患者が信じやすい医師の立場で発信し、自分の頭の中にしか根拠がない療法を患者に試させることは、なんとしても治りたい人の心をもてあそんでいる」と語った。
■根拠の薄い療法の問題点は
民間療法などの注意点を発信する厚生労働省「『統合医療』情報発信サイト」の責任者、大野智・島根大教授は、根拠薄弱な療法の問題点を3点、指摘する。
①健康被害の可能性
②高額な費用がかかる恐れ
③標準的な治療を遠ざける危険性
「このひとつでも該当する『療法』は避けるべきです」と話す。
イソジン牛乳の場合、提唱者の医師は「副作用があるはずがない」と話していた。
が、メーカーによればイソジンは、正規のうがい薬としての使用ですら、副作用の報告例がある。また医師は、100部出版したという著書では一般の療法との「併用」が前提だと書いているものの、記者が入手した各地の患者会へのメールでは標準的な治療を受け続けるように勧める記述はなく、イソジン牛乳はがんを「根治的に治療される事が出来るもの」とまで書いている。
大野さんは「①と③が該当する恐れがある」と指摘した。
「イソジン牛乳の場合、根拠薄弱な療法を医師が勧めるという点でそもそもルール違反。ですが、こうした療法が広がる現状には、通常の医療現場で患者さんの不安に対するケアが十分行われていない、という背景もあると思います。患者さんの心のケアをはじめとして、医療界全体で取り組むべき課題です」