宮城県石巻市で東日本大震災後に始まった「石巻日日こども新聞」。今年3月11日に25号を発行した。
一面の記事は、震災時に熊本の防災ヘリに助けられたこども記者が、同じくヘリで搬送され出産した女性に取材した希望ある物語。
こども新聞を創設した太田倫子さんは、震災を伝え、子どもたちの居場所を続けるため新たなスタートを切った。
〇キャリア転々、故郷に戻ったら震災
「石巻日日こども新聞」を始めたのは、石巻出身の太田倫子さん(49)。高校まで地元で過ごし、東京外語大に進みアラビア語を学んだ。小さな商社で働いた後、留学を経てブリュッセルの銀行の支店に勤めた。
1998年に帰国し、森ビルで美術館の運営に関わった。両親がいる東北に帰りたいと2008年、山形の農家をPRする仕事についた。その後、仙台の会社に転職したが11年、震災が起こって自宅待機に。仙台や石巻の小学校でボランティア活動に加わり、子どもたちのアクティビティが少ないと感じた。
友人がインド人のマジシャンを呼び、太田さんも一緒に学校を回った。津波の被害が大きかった地域の子どもたちは笑顔がなく、笑ってはいけないと気を使っていることに衝撃を受けた。「気持ちや感情を表現する場がいると思いました。心の中に閉じ込めておくとトラウマになる。家庭や学校は大変な状況だったので、それ以外の居場所が必要でした」
内閣府の助成を得て11年末に仙台市で社団法人「キッズ・メディア・ステーション」を設立。「新聞を作ろう」と決めた。国内外の友人に、「何かしてあげたい」「どうしてる?」と言われていた。新聞を作って発信すれば、何が必要かわかり地元の応援になる。読者の反応が得られたら、子どもたちのやる気も上がると思った。
〇地元紙の協力で新聞作り
新聞にするなら、きちんと形にしたかった。地元の夕刊紙「石巻日日新聞」が震災後、記者の手書きで壁新聞を作り、避難所に貼りだして情報を届けていた。「小さいころから、なじみのある新聞でした。こども新聞の企画書を持って、当時の報道部長を訪問したんです。協力していただけないかと言ったら、すぐにやりましょうと」
毎週土曜日、石巻市内でワークショップを開く。そこに希望者が参加し、取材や執筆、校正や発送作業をして年に4回、発行する。2012年3月の創刊号のテーマは「ありがとう」。1号は「写真で伝えよう」。3号は「未来を考えよう」。題字のデザインや、キャラクター「しんちゃん」の絵は、こども記者が書いた。
初めは日日新聞の記者が取材や執筆について教えに来てくれた。レイアウトも日日新聞の編集者が手がけ、通常の新聞と同じ仕様で4面。実費で印刷してもらい、3万部を発行する。太田さんのほかに、大人スタッフ数人が子どもたちの文章の書き起こしや取材の付き添いなどをしてきた。
〇子どもたちのエンパワメントに
読者からは「孫を見守っているようで楽しみ」「読みやすい」と感想が届く。こども記者が取材で高齢者を訪ねると喜ばれ、「あの人のところにも行ったら」と紹介される。
太田さん自身は子育ての経験はないが、親でも先生でもない立場だからこそ、子どもたちの良さがわかるし、支えられると思っている。「震災後に大きな病気をして、子どもたちにエネルギーをもらいました。同じ目線で、背中を押し続けています」
私も、こども記者に話を聞いた。「また地震が起きるのでは」と不安を抱えるヒロキ記者は、活動が心のよりどころになった。「この人に会いたい」と積極的に企画し、話の聞き方も工夫する。自由に表現できるのがいいという。他のこども記者も、地元の様々な仕事を知ったり、イギリス取材を実現させたり。新聞社に就職した子、看護科に進んだ子もいる。経験が子どもたちを力づけ、心の成長にもつながっていると感じた。
〇日常が戻って新しい企画も
震災から7年の今、どうやってこども新聞を運営していくかが課題だ。震災後しばらくは行く所がなく、こども新聞は貴重な居場所だった。日常が戻ってくると、部活や習い事、受験勉強と子どもたちは忙しい。
成長して卒業する子も増え、定期的に参加する子が少なくなった。登録は60人ほどで、新しいメンバーも入ってくるもののレギュラーは5~6人。最近は子どもたちの都合に合わせて取材したいテーマを聞き、活動を設定している。
「以前は、自分たちだけぬくぬくしていていいのかという気持ちが地元の大人にもあった。何かしなかきゃと思って動いた時期は終わってしまったんです」(太田さん)
昨年は新しい企画を考え、企業の助成金を得た。「石巻日日こども商店」として商品を作り、収入にする。こども新聞を知って応援を申し出た宮崎県の企業とコラボレーションし、缶詰のパッケージデザインを受け持つ。また、こども記者のデザインで段ボールメーカーと募金箱を作った。こども新聞が活動する施設「石巻ニューゼ」の商店コーナーやコンビニエンスストア、ウェブサイトで販売する。
〇活動リニューアル、資金調達が課題
毎週のワークショップは、子どもたちのモチベーションが上がるプログラムにしようと見直しを検討。「こども記者の養成講座にして毎月1回、1年間来てもらう」というプランもある。現在は、こども記者のノウハウを盛り込んだテキストを作っているところだ。あいさつやインタビューの基本、メモの取り方、タイトルのつけ方など大人スタッフがまとめている。
資金についても模索中だ。こども新聞の活動は、無料で参加できる。基本は、年間で一口3000円からの「サポーター」に支えられる。運営母体を昨年末、寄付を集めやすい公益社団法人にして、名前も「こどもみらい研究所」と変えた。
「震災後の活動は過渡期にあり、助成金の打ち切りも少なくありません。こども新聞も『復興の試みなのか』と助成元から指摘されました。しっかり経済基盤を持って活動するべきで、資金の調達は課題。参加者からは費用を取らず、余裕のある第三者が負担するモデルを作りたいんです」
〇盛りだくさんの最新号
今年3月11日に発行した25号には、様々な目玉記事が掲載された。一面トップは、震災当時、熊本の防災ヘリに救助されたリンネ記者(現在は高校生)の記事。同じくヘリで搬送されて無事に出産した石巻の親子を取材した。リンネ記者は震災時の体験を18号に書き、熊本地震が起きた後は現地に取材に行っていた。
高校生のレン記者と中学生のショウタロウ記者は、福島の相馬にある子どもたちの遊び場を取材。こども新聞も支援を受ける「Tポイント・ジャパン」の寄付でできた場だ。記事を見ると、「原発事故の影響で、子どもたちを外で遊ばせるのが心配という保護者も多い」との一文があった。重いテーマをさらりと表現している。
今はブラジルに住むモミヂ記者は、石巻のがれきの山で咲いた「ど根性ひまわり」の8世をブラジルで咲かせ、記事にした。このひまわりは種をわけ、国内のあちこちで咲いている。季節の関係で、ブラジルで先に開花したそうだ。
太田さんは「世界にはたくさんの仕事や役割がある。子どものころから『これが好き』というものを見つけるのに、記者の体験は最適。大人が子どもの良いところを伸ばし成長を手助けする場のモデルとして、全国に広げたい」と願ってきた。
最近は「震災を忘れない。防災意識や地域愛をはぐぐむ場にするのが、こども新聞の一番の目的」と再確認した。「児童と職員84人が亡くなった大川小も、統合される形で歴史を閉じたばかり。震災を語ることが難しくなっていますが、やはり伝えなければならないと思いを新たにしました」
なかのかおり ジャーナリスト Twitter @kaoritanuki