意味がない見出し論
インターネットとニュースを巡る話は、高すぎる理想を語るか、およそ現実的すぎる「クリックされる見出しとは何か」のような話に偏ってきた。
あらためて、その功罪を考えている。
理想は永遠の正論でいつまでも実現できず、小手先の話は「バズる」ことを最優先にし、「伝える」ことを後回しにしてきた。バズると伝えるを一緒くたに語る人たちもいた。結果的に、伝えることは放置されてきたのではないか、と。
私が東京大学で受け持っている講義で、こんな話をしている。
《特にネットの記事は見出しが9割といってもいいくらい大事だと思います。本や映画のタイトルも非常に大事なのと同じように、読まれる見出しを考えることに意味はあります。
ただし、それは記事の中身が伴っての話です。予告編だけがおもしろい映画が酷評されるように、見出しはおもしろそうなのに、中身が伴わずがっかりさせたら読者は二度と戻ってこないでしょう。まず中身をしっかりさせてから、外見を整えるというのがあらゆる表現に通じる王道ではないでしょうか。
ニュースの世界も同じです。》
良いニュースとは何か?
そのために大切なこととして、まずインターネット時代の良いニュースとは何か、を考える必要がある。さしあたり、私の定義はこうだ。
インターネット時代の良いニュースとは、事実に基づき、社会的なイシュー(論点、争点)について、読んだ人に新しい気づきを与え、かつ読まれるものである。
この定義は4つのパーツで構成されている。
①事実に基づき②社会的なイシュー(論点、争点)について③読んだ人に新しい気づきを与え④かつ読まれるもの。
パーツはそれぞれ単独で成立しているわけではなく、相互に関連しているし、お互いに強い影響を及ぼしあっている。
フェイクやまとめは「良いニュース」ではない
①は嘘はいけないということだ。
誤報や勘違いも含めて、事実と異なることが入っていては良いニュースとは言えない。うっかり勘違いして書いてしまったならインターネットならば速やかに、紙媒体なら次に発行するもので訂正をすることは必須だ。
この定義によって事実に基づかない、完全に想像だけで書いた創作物は外すという意味も込められている。フェイクニュースや「まとめサイト」などで見られる針小棒大な、あるいは想像や推測を多分に含んだ記事は良いニュースではないということができる。
「個人的なことは政治的なこと」
②は社会的な問題、社会への広がりを意識したものが良いニュースの条件であるということを意味している。事実ではあるけど私的な要素が強いものは良いニュースとは言えない。
こういう話をすると、「では、ブログやツイッターはどうなんだ。私的なことが書かれていても、実は社会的なこととつながっていてニュースになるのではないか」という質問を受けることがある。私の回答は「私的なテキストに社会的意義を与え、『良いニュース』に仕立てるのが、良い記者や編集者の仕事だ」というものだ。
本人からすればそこまで社会的な広がりを得るとは思っていなかったことが、一気に広がることがあるということもインターネットの特徴だ。
例えば2016年に大きな話題になった「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログがある。このブログを書いた人は、書き込んだ時にここまで大きな反響を呼ぶとは思ってはいなかっただろう。
ブログにあるのは、論理的な説明というより、自分が保育園を落ちて働けなくなることの悔しさであり、教育への投資に熱心とは言えないこの社会への叫びだ。
ブログそのものは事実に基づいてはいるが、これをもって最近の保育園をめぐる問題が一応わかるというものではない。ブログを良いニュースとは言えないが、このブログが広がった社会的意義を問う記事は良いニュースの条件を満たすかもしれない。
フェミニズム運動の名言に「個人的なことは政治的なこと」という言葉がある。個人のことは突き詰めていけば結果として、社会的なイシューと接続している。これを端的に示すことができれば、ニュースの価値はさらに高まったものになる。
良いニュースは「それってあなただけのことでしょ」と読み手に思わせてしまってはいけない。個人的なことから出発してもいい。私的なことを突き詰めて、社会へと接続した時、個人的なことが「良いニュース」となっていく。
新しさ、はニュースの価値
③は「これって読んだことがあるな」と思われては「良いニュース」とは言えないという話だ。どこかで見たような見出し、焼き直したテキスト、どこかからパクってきた写真はすべて良いニュースの定義から外れる。
読者にとって「これは新しいことを知った」と思ってもらうことが、良いニュースの条件として、不可欠なことになる。
100万PVの芸能ニュース、5万PVのルポに優劣?
④は、より多くの人に読んでもらうために手段を尽くすことが大事であるということだ。
「読まれなくても大事なことがある」という考え方を取る人もいるが、読まれないというのは端的に社会的なニーズあるいは市場がない。
大事なものであるならばなおさら、広げていく努力は不可欠だ。
読まれる、と言っても硬派なルポルタージュを例えば芸能関連のニュースと比べてはいけない。関心は後者のほうが断然高い。
大ヒットした漫画の部数と長編小説を比較して、漫画のほうが純文学より価値がある。なぜなら部数が出ているからだという人に出会ったら何というか?
私は物事の価値を推し量る物差しを一つしか持つことができなかった残念な人だと言う。両方ともそれぞれに素晴らしいのであって、同じ基準で優劣をつけるものではないからだ。
モノサシを持つということ
「読まれる」の定義は常に柔軟さが求められる。
100万PVのゴシップ的な芸能ニュースと、5万PVの長文のルポルタージュを比較し、芸能ニュースのほうが20倍の価値があるということにはならない。
長く書かれたルポの5万PVで、それなりの時間をかけて深く読者に読まれるのなら、それは大いに意味がある。
毎回のようにルポが100万PV読まれるというのはあまり現実的ではないが、5万PVなら10万PVを目指すということはリアリティがある目標と言えるだろう。
逆に通勤の暇つぶしで読まれるような100万PVの芸能ニュースには、瞬間的に社会の好奇心を満たすという大事な役割がある。
1万PVでも良い意味で読んだ人の人生に影響を与えていくニュースはあるし、逆に100万PVでも1時間後には忘れられるニュースもある。果たす役割はそれぞれ異なる。
繰り返しになるが、PVは一つの物差しでしかない。多くの物差しを持たない限り、良いニュースは書けないと思うのだ。
良いニュースと必要なニュース
「良いニュース」について語る時、強調しておきたいのは、私は「必要なニュース」を否定する気はないということだ。
ニュースには大事な情報を伝えるという役割もある。それらは私が定義した、王道としての「良いニュース」の定義から外れるものがある。だが、特にニュース業界において「良いニュース」ではないから悪いニュースという考えほど無意味なものはない。
ニュースの良さはグラーデーションで考えるべきものであり、良いとまでは言えないが「必要」を満たすニュースもまた重要なのだ。
例えば生活情報などが最たるものだ。台風などの影響で交通機関があらかじめ運休を発表する。これなどは交通機関の発表を元にインターネットで調べればわかることで、わざわざテレビや新聞で報じても「良いニュースだ」と褒められることはない。
しかし、ニュースとして報じる価値はあるものだ。
「その程度の台風で止めるのか?通勤に迷惑」と思っている利用客に対して、あらかじめ大きく報じることで注意喚起になるし、企業としてなぜリスクを回避するのかを広く社会に伝えるにも意味がある。
事実そのものではなく、事実を価値づけて大きく伝えることで、運休に対する不満を軽減させ、社会的に「それなら出勤できないのも仕方ないな」といった形で、合意形成を促す効果を持っていく。
「良いニュース」は王道だが、だからといって王道ではない「必要があるニュース」の価値が下がるものではない。
「必要」を満たしつつ、どれだけ「良いニュース」を発信をできるか。
安易な「バズる」に流されず、「伝える」が力を取り戻すためにもっとも必要なことだと私は考えている。