「戦争は対人間だけど、コロナは対ウイルスだからです」
この夏、「小説現代」で現代を代表する若手・中堅作家たちのオンライン鼎談を司会、構成した。直木賞作家の真藤順丈さん、ともに直木賞候補にも名を連ねている深緑野分さん、小川哲さんの3氏に「戦争を書くこと、語ること」をテーマに議論を深めてもらうという趣向の鼎談だった。
3氏の共通点は、真藤さんが『宝島』(講談社)で激動の沖縄を、深緑さんは『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房)でナチスとベルリン、小川さんは『ゲームの王国』(早川書房)でポル・ポト体制とカンボジアーーと書き手にとって全く接点がない土地、そして「戦争」が色濃く反映された時代を描き、それぞれ一級のエンターテイメント作品に仕上げたことだった。
体験していないものを「想像力だけで時代も空間も越えていく」(真藤さん)物語を作り出していくこと、知らないことに真摯に向き合おうとする作家たちの姿勢に大いに好感を持った鼎談だったので、詳しくは「小説現代」を手にとってほしい。
この中で、深緑さんが実に興味深いことを語っていた。新型コロナ禍と「戦争」についてだ。
いま、新型コロナウイルスの問題でよく「コロナとの戦争」という言葉が出てきます。私はコロナと「戦争」をくっつけたくないんですね。なぜかといえば、戦争は対人間だけど、コロナは対ウイルスだからです。戦争は人間同士をいがみ合うように仕向けるものです。
そうじゃないと戦闘意欲がなくなるから、戦争中は人を焚きつけるのが当たり前なんですね。だけど、コロナでそれをやっちゃまずいですよね。人が人を助けないと、連携しないと解決できない問題だからです。ですが、本人たちが意識しているかどうかはわかりませんが、暴力のシステムをつかいたがる人もいます。
暴力のシステムを突き詰めた先にあるのが戦争ですが、その前段階には常に、差別や偏見の問題がでてきます。
暴力のシステムが強まっていく現実に、警鐘とまでは言わないまでも気づいてくれる人は、気づいてくれるといいなと思いながら小説を書いています。
26歳のユーチューバー。自粛警察活動に勤しんでいる
私がこの言葉を聞いて、真っ先に思い出したのは、これもこの夏「文藝春秋」の取材で出会った26歳の若者だった。
ユーチューバーの彼は、自粛警察活動に勤しむ。緊急事態宣言下のパチンコ店の前に立ち、カメラの前で客に罵声を浴びせ続け、その様子をユーチューブにアップした。
「病気です、病人です。あのおばさんを見てください。病院に行けよ。家に帰れ、この野郎。小池都知事のいうこと聞けよ、ババア。みんな、外出自粛してるんだよ。パチンコじゃなくて、病院に行けよ」
まさに暴力のシステムの中に組み込まれている一人だ。
大分県育ち。現在は東京都内の会社で働いている
彼は、大分県育ちで現在は東京都内の建設系の会社に勤める会社員である。自衛官経験もある彼は、多くの人と同じように社会生活を営む若者だ。
当然ながら、暴言を浴びせ続けるようなコミュニケーションだけで生きているわけもない。実際に会ってみても、オフラインでは実に礼儀正しい一人の若者という印象は変わらない。
私の取材に同行した編集者も、彼と接したメディア関係者も一様にそこは認めている。
では、いったい何が彼を「自粛警察」活動に駆り立てるのか。
消毒も欠かさず、家に帰ったら殺菌スプレーをかける
私は取材を重ねるなかで、ひとつの仮説を提示した。彼は極めて正しく「新しい生活様式」を実践している。
取材した時期は、東京の感染者数が一時落ち着いた時だったが、ご時世だからとマスクをまず外すことなく身につけ、電車内で咳をしている人がいれば距離をあけ手洗いは定期的に専門家が推奨する「ハッピバースデートゥーユーを2回歌い終える程度の時間」しっかりとやり、消毒も欠かさない。家に帰ったら、服に殺菌スプレーをかける。
そして、政府の要請に従って外食も自粛し、多くの時間は家にいる。
医療現場への感謝も欠かさず、だからこそ迷惑をかけるような行為をする人々が許せないのだ。
厚労省クラスター班の分析では、パチンコは客同士が飛沫を飛ばすこともない比較的リスクが低い場所とされているが、彼に取ってはさほど重要な事実ではない。
大事なのは、「みんなが自粛をしている」緊急事態宣言下で、パチンコ店に行く医療現場に迷惑をかける可能性がある人々がいることだ。
「けしからん」と彼は思った。
彼の行動を支えているのは、正義感だ。自分は政府・専門家の求めに応じ、医療崩壊を防ぐために正しいことを実践している。それにもかかわらず、なんら気にしない人々の行動が許せない。
コロナを読み解く「社会的感染症」という言葉
「社会的感染症」とは感染への不安や恐怖がベースとなり、特定の人たちに対する差別、偏見を生み出し、嫌悪をぶつけるべき対象が社会のなかに誕生する。言うなれば、感情の感染症だ。
各地に現れた自粛警察は行動こそ極端だが、それを支えているのは社会的感染症が広がる中でありふれた人々の感情である。
暴力のシステムは「正義感」「けしからん」という感情から作動する。ファクトもエビデンスも、専門家の発言も時に人々の「正義感」を肯定する方向に向かう。
本当に「若者」は危険な存在だったのか?
例えば、若者が危ないという意識が広がったのは、政府が設置した専門家会議(当時)のメンバーで、かつてWHOで、SARS(重症急性呼吸器症候群)封じ込めの陣頭指揮をとった疫学者・東北大学教授の押谷仁さんが3月2日の記者会見で漏らした一言だった。
「若年層で感染が大きく広がっているエビデンスはないが、そうでないと説明がつかない」
世界屈指の専門家の一言にメディアは飛びついた。この発言は確かに事実だったのかもしれない。だが、結果として広がったのは街を歩く若い世代がクローズアップされ、彼らに対して広がった「けしからん」という感情だった。
ニューズウィーク日本版の取材で会った押谷さんに、私は専門家の発言が世代間の分断を生み出し、安易なバッシングを強めたのではないか、と問うた。
質問を鋭い眼差しで聞いていた彼は、「僕らも反省しなければいけない」と自身の発言が世代間対立を生んだ、と語った。
暴力のスイッチは誰もが握っている
自らに「大義」があると思った時、人の言葉はどんどん強くなり、他者の行動を変化させようとする。やがて安心してバッシングできる対象が設定され、差別や偏見が強まり、社会の分断は深まっていく。
例えば「コロナ収束」という大義を掲げれば、そして正義感があれば、分断への自覚もしにくいまま強い言葉を投げつけることができる。
そこに政治家も専門家も、そしてメディアも関係ない。正義感をもとに、暴力のシステムを作動させるスイッチは誰もが握っている。そこに無自覚なままでいいのか。私たちにいま突きつけられている課題だ。