『表現の不自由展』中止が浮き彫りにしたこと。右派と左派、お互いが潰しあってる?

表現の自由について考えようとした企画自体が「表現」できなくなった。どうしてこんなことに? 憲法学者の曽我部真裕・京都大大学院教授に話を聞いた。
HuffPostJapan

国際的な芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が始まって3日で中止となった。慰安婦をイメージした少女像の展示などにたくさんの抗議が来たためだ。

 表現の自由について考えようとした企画自体が「表現」できなくなったという最悪の結末になった。

 SNSなどによって自由に議論ができる社会になったはずなのに、どうしてこうも不自由で、人を傷つけ合ってしまうのか。「表現の自由」についてどう考えたらいいのか。憲法学者の曽我部真裕・京都大大学院教授に話を聞いた。

展示されていた少女像
展示されていた少女像
Aya Ikuta/HuffPostJapan

 表現の「不自由」が改めて可視化された 

–––今回の表現の不自由展が中止になってしまったことについてどう思いますか?

 率直に言って、残念です。いまの社会で表現をすることが、不自由だということが改めて可視化されたという点では意味があったかもしれませんが…。

–––慰安婦をイメージした少女像の展示を名古屋市の河村たかし市長が視察し、「日本人の心を踏みにじる」として中止を求めました。

 政治家にも「表現の自由」はあります。ただ、表現と役職は、必ずしも切り離すことは出来ず、権限を持つ市長が何かを口にすればそれなりの影響がでるので、職務にともなう節度が求められます。

 美術展を行政が公金を出してサポートする場合、憲法の世界では、「美術の専門家が決めた内容を尊重する」ことがロジックになっています。(「金は出すけど、口は出さない」という方針だった)愛知県の大村秀章知事のスタンスが正しいのではないでしょうか。

写真撮影やSNSの禁止を呼びかけるサイン。SNSの「炎上」が進行し、展示会の安全に影響が出ることを懸念したという。
写真撮影やSNSの禁止を呼びかけるサイン。SNSの「炎上」が進行し、展示会の安全に影響が出ることを懸念したという。
Aya Ikuta / HuffPostJapan

 –––河村市長の発言は憲法21条で禁止する「検閲」にあたるのでしょうか?

 展示中止を決めたのはあくまで、あいちトリエンナーレ2019(津田大介芸術監督)の実行委員会であって、河村市長が決定したわけではありませんので、法的な意味での検閲とはいえません。

 ただいわゆる「口先介入」であり、一般的に広い意味ではこうした発言は影響を与えます。市長のような公権力の側は、むしろ表現の保護に動くべきですし、脅迫とみられる行為をした人に対してはきちんと捜査をするというメッセージを発するべきです。

Aya Ikuta/ HuffPostJapan

 公的なお金入れてるから「反日はダメ」論

–––あいちトリエンナーレには公的な資金も使われています。そうした場で、「少女像」のような「反日的な作品」を展示するべきではないという意見があります。大阪府の吉村洋文知事も8月6日のTwitterで「愛知県が主催する公共事業で、慰安婦像、天皇の写真を焼却、ありえません」と投稿しました。

 「自分(行政側)の気にくわないものに公金を出さない」は成立しない議論です。

 たとえば、特定の国などに批判的なヘイト団体が市民会館を集会に使いたいと言ってきたとします。市民会館がその団体に部屋を貸せば、「彼らの主張に同意したと思われる」から貸さない、ではダメなのです。

 公金で建てられた市民会館は、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見される場合でない限り、誰に対しても施設を貸す必要があります。賛同しているかどうかは関係なく、公平に貸さないといけない。

逆に言えば、特定の主張の団体に貸したからといって、行政がその主張に賛同したということにはならないのです。

今回のような美術館については誰にでも貸すわけではないので、市民会館の場合と考え方が少し違いますが、いずれにしても、行政の考えによって、不当に作品を排除することはできません。

 リベラル派も「逆の立場で考えて」

–––政治家だけでなく、「表現の不自由展」には、電話やネットなどを通して多くの抗議が市民から寄せられました。

 「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」と書いたファクスなど脅迫は論外です。一方、それ以外の「抗議」や「批判」はやってはいけない、ということではないですよね。(「少女像」や「昭和天皇をモチーフにした作品」に対して)不快な思いをしたら、口にする権利があります。まさに表現の自由です。

 ただ、一人一人の抗議が、ネットなどの影響で数があまりに多くなり、受け止めきれなくなっています。今回の展示の中止理由も、主催者のスタッフが抗議の応対などで疲弊したのが大きな点でした。

 一方、表現の不自由展を支持するリベラル派も「逆の立場になったらどう思うか」ということも考えなくてはいけません。

一橋大学で2017年10月、学園祭で予定されていた作家の百田尚樹さんの講演会が中止になりました。リベラル派と反対の意見を持つ百田さんのこれまでの発言が「差別的だ」として学生から声が上がったためです。

 百田さんは「言論弾圧だ」と主張しました。彼を支持する人にとっては、今回の「表現の不自由展」で展示を見られなくなった人と同様に、話を聞く機会を奪われたと思った可能性もあります。

 百田さんの講演会中止の件も、今回の「表現の不自由展」の件も、それぞれ複雑な背景があり、単純に「同列」には考えられない点はあります。

ただ、あえて共通なものとして俯瞰的に考え、立場の違う人同士が、根本的に考える時期に来ています。お互いが「表現の自由が侵害された」と主張するだけでは、前に進まなくなっているのではないでしょうか。

–––百田さんの講演会開催をめぐって問題視されたのは、人種差別的な言動を繰り返すなどした、ためです。社会として人種差別的な思想などに対してNOと言う必要があるのですが、百田さんに賛成する人も反対する人もSNSでは過激になってしまい、議論が混乱しています。

右派や左派に関係なく、立場を入れ替えたうえでもお互い納得できる「抗議」とは何か、どうすれば相手が表現する場を守りながら議論ができるかを考える段階に来ていると思います。

 たとえば「ヘイトスピーチ」という言葉にしても、ものすごく一人歩きしてますよね。(今回の「表現の不自由展では少女像が「ヘイト作品だ」という主張もあるように)自分と反対の意見や耳が痛いことは全部ヘイトスピーチとなってしまう。

これは、実は逆の立場のリベラル派もそうで、広い意味で使ってしまっている面もあります。

ASSOCIATED PRESS

  慰安婦像、「街の中での設置」と「美術展」の違いとは?

 –––慰安婦をイメージした像をめぐっては、サンフランシスコ市が2017年、民間団体が建てた少女像を市の所有にしました。反対した大阪市の吉村洋文市長(当時、現大阪府知事)が姉妹都市の解消を通告しました。街中に像が建てられるのと、今回の展示に違いはありますか。

 街の中に設置するのは、自治体として是認していることになり、設置者の主張を認めることにつながります。ただ、今回の「表現の不自由展」は、芸術祭の一環として専門家のキュレーションによって企画されたものであって、行政の判断ではありません。

なので、自治体として賛成したものではないということです。また、街ではなく、展示場の中にあり、行きたくない人は見なくていいわけです。

 ただ、アート作品や展示場内の設置であろうと、少女像が世の中のどこかにあること自体が「許せない」という人がたくさんいることが浮き彫りになりました。限られた人が集まっている屋内空間でも『自分たちとは違う意見が表現されていることは許されない』ということなのでしょう。

繰り返しですが、これはリベラル派にも言えることで、自分の目に普段触れない言動であっても、お互いの立場を認め合うことが難しい社会になっています。

 ボールは私たちにある 

「表現の自由を保障する」という憲法の考えは、基本的には、公権力が表現の自由を不当に規制してはならないということを意味します。つまり、少々過激な表現であっても公権力は規制してはならないのが原則であり、国家ではなく、社会の方でなんとかしろ、という意味でもあるのです。ボールは法律ではなく、市民側にある。

慰安婦をアート作品として設置することは法律で規制されているわけではない。それなのに、ある種尖った表現をすると、社会的な圧力でつぶされてしまう。

しかも今回の展示の継続を望んでいたリベラル派も別の場面で同じようなことをしている可能性がある。議論をするとき、相手を尊重しているのか、完全に潰そうとしていないか。

自分と異なる立場の人が表現の機会が奪われたとき、今回と同じように抗議の声を挙げているのか。そういうところを第一歩として考えないと、お互いがお互いをつぶし合うという状況になってしまうのではないでしょうか。

取材に応じる曽我部真裕・京都大大学院教授
取材に応じる曽我部真裕・京都大大学院教授
AyaIkuta/ HuffPostJapan

 インタビューを終えて

 今回の「表現の不自由展」で問題になった少女像。慰安婦をめぐっては、学者や政治家らの間で見解が分かれており、議論をすることが難しい。

 ただ、立場は違っても、日本と韓国などの間で長年こじれているこの問題を解決したいという気持ちは同じなはずだ。

だからこそ、私は少女像のようなアート作品や、慰安婦問題を扱って話題となっている映画『主戦場』などの“コンテンツ(創作物)”に期待をしていた。

政治や外交の場で正面衝突をしても、アートや映画などを通してなら自分と異なる意見がスッと入るのではないか。創作物はリアルな世界と少し離れているからこそ、ふとした瞬間に対立する相手との共通点が見つかるのではないか。

いつもの正面衝突の「慰安婦論争」になった

 今回の少女像の展示についても、不快感を抱く人がいるのは予想できた。私の周りにも、世界各地でこの像がプロパガンダとして使われることに反対の人もいる。

ただ、過去に少女像が美術館から撤去された経緯を学び、「たとえ不快でも、慰安婦のことを知る機会が奪われてしまう」こと自体は果たして良いのかどうか、そもそも「アートと言えるのか」など、政治的立場を超えて考える場だったはずだ。

 だが、強い主張を持った政治家が議論に加わり、作品がネットにアップされ、多くの意見が入り乱れ、SNSに集約されたことで、「慰安婦」そのものを巡る、いつもの正面衝突の議論になってしまった。

そして政治家の言葉が後押しした面があったとはいえ、権力者ではなく市民からの「同調圧力」で表現の自由が奪われてしまった。

すべての議論を一カ所にまとめるSNSの罪

 曽我部教授はインタビューで、保守派もリベラル派もそれぞれ「逆の立場で考える」ことの大切さを繰り返し語った。

ただ、今のSNSはつくりが単純すぎるため、「政治の話」をしているのか「アートの話」をしているのか、自分の「思想的立場」を明らかにしているのか、お互いの言葉の文脈が分からずに、相手の立場を想像するどころか、すべての議論が同じテーブルで素早くおこなわれてしまう。

 2019年夏の「表現の不自由展」の3日間での中止。「アート」という、リアルな政治の現場から離れて議論する「空間」でさえ失われてしまった。

きちんとした表現の場をもう一度つくれるのか。メディアとして普段の「批判」や「報道」のあり方も含めて、問われているのだと思った。(竹下隆一郎、生田綾)

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