日本文学研究者で、「スッキリ」などテレビ番組でコメンテーターとしても活動するロバート キャンベルさんが魅了されてやまぬミュージシャンがいる。それが井上陽水だ。その独特な歌詞を「日本文学の系譜に連なる」ととらえ、50曲の歌詞を英訳するという営みを『井上陽水英訳詞集』(講談社)として一冊にまとめた。これは、インターネットでできるようなただの「翻訳」ではない。キャンベルさんが名ガイドとなって、英語と日本語を往復しながら、詞の世界に分け入り、読者を誘っていく。
大ヒット曲「夢の中へ」は誰の夢の中に行くの? 「傘がない」をどう訳す? 「最後のニュース」の主人公はどんな思いで「ただ あなたにGood-Bye」と言うのか?
読解の先に見えるのは、日本語と英語それぞれの言語が持つ豊かさであり、言葉の「力」だ。
陽水の歌詞には「人がどう生きるのか」という思索的な問いがある
キャンベルさんが「井上陽水」というミュージシャンにのめり込んだのは、2011年夏だった。もちろん、初めて日本を訪れた1979年にも、それから九州大学—まさに井上陽水の出身地にある—留学生時代にも、街に流れる陽水を聴いていた。2011年はそれまでとは異なり、病室で聴いていた。重い感染症を患い、約50日間の入院をした時のことだった。
「外出も許されず、病室の淡い空色に塗られた天井を見つめていたら、ふと井上陽水さんの歌詞が再び浮かんだのです」(『井上陽水英訳詞集』)
1日1曲、誰に強制されることもなく訳した詞が本の原型になった。もちろん、陽水の詞はわかりやすいものではない。主語が省略されていたり、時間の流れも曖昧にされていたりすることがある。
キャンベルさん流の解釈で仕上げていた英訳を本人にぶつけるべく、ラジオ番組で陽水をインタビューし、さらにもう一度、本のために対話を重ねた。キャンベルさんの熱意が勝り、歌詞の解説なんてやってこなかった陽水が口を開いた――とここまでが、本の前段のお話。大事なのはここからだ。
《井上陽水の歌詞に通底しているのは、ある「幸せ」や「価値観」に対して、ちょっと待ってよ、という哲学的な問いがあるんです。人がどう生きるのかという思索的な問いがある。》
ヒット曲「夢の中へ」から考えてみよう。日本語で読むと、難しい言葉も使われず、聴いていても、読んでいてもすっと馴染んでくるものだ。ところが、これが難問と深い問いを内包している。
“探しものは何ですか? 見つけにくいものですか? カバンの中もつくえの中も 探したけれど見つからないのに”
《「夢の中へ」は描かれている時間がいつなのか。時間の流れがない詞ですよね。そして、二人称で誰かに呼びかけている。それが一人なのか、体育館で全校生徒に向かって語りかけているのか、それとも老人ホームで2〜3人のお年寄り相手に話しかけているのかわからない。
そもそも冒頭から出てくる「探しもの」という言葉が英語にないんです。落とし物なら「Lost Object」でいい。英語の世界観なら「落とし物」というのは、すごく大事な物を落とした、そして見つけないといけないから「Lost」(失った)なんです。でも探しものは、「今」まさに探している、探そうとしていて、まだ見つけていない。
「落として、見つける」んじゃなくて、いま「探している」は違いますよね。僕は結局、「What is it you’re looking for?」と訳しました。
「探しもの」っていう英語はないんですけど、でも、例えば人が生きるとは何か、何のために生きるのかという哲学的な問いってまさに「探しもの」なんですよ。「夢の中へ」は冒頭から、「探しものは何ですか?」と問いかける。これはほとんど現代思想ですよね。書き出しとして、実に秀逸です。
あと、悩んだのは、問いかける語り手が誰なのかが最後まで明かされないことです。考えてみたら不気味な歌詞にもなるんですよ。「夢の中へ」は「私」の夢の中へ来ませんか?なのか。それともみんな一緒に夢の中へ行って楽しもうぜということなのか。
前者ならちょっとストーカー的で、後者ならもう少し安心できる。英語に訳すときは、語り手がどういう状況にいるのかを確定させないといけないんです。》
そこでキャンベルさんが決めたのが「Into our dreams」――。つまり「私たち」の夢の中へという解釈である。「(みんなで)夢の中へ 行ってみたいと思いませんか?」と呼びかける語り手を想定した。一人で、僕の夢に来てくれと呼びかける詞よりも楽しい世界になる。夢の中で踊ろう、という呼びかけとも親和的だ。
主語が「I」なのか「We」なのか
《「いっそ セレナーデ」も英語に翻訳しにくい曲でした。例えば「夢のあいだに 浮かべて 泣こうか」という部分。これは独り言なのか、誰か目の前にいるのか。
さらに何年も前のことを思い出しているのか、それとも今、思い出してつぶやいているのか。誰かに語りかけているとしても、目の前に誰かを思い浮かべて語っているかーー。歌い手の主語が「I」なのか「We」なのかがわからない。
最後は「I」を主語にしましたけど、これは正解がない議論ですね。
この語り手もそうですが、井上さんの歌詞は時々「信頼できない語り手」があらわれます。僕たちは、この人の言葉をどこまで額面通りに受け取っていいのかわからなくなるんですね。僕は、それはとても文学的だと思うんです。》
そもそも、この曲はタイトルから難しいのだ、とキャンベルさんは語る。セレナーデというのは恋人に送る恋愛の歌。それを「いっそ」、つまりいろいろな歌を考えた末に、あえてセレナーデを選ぶ。その感情をどうタイトルで表現するのか。
《僕がつけたタイトルは「A Just-so Serenade」。井上さんはこれにはちょっと納得いかなかったみたいで、「ロバート、これでは優しさがない。この曲のタイトルには優しさが大切なんだ」っていうんですよね。
僕も井上さんの話を聞いて考えたけど、最後はちょっと反発しました。もちろん歌詞をすべて読むと、優しさが大事なことはわかる。でも、タイトルからでは、「優しさ」がどこに込められているかはわからない。「Just-so」は「いっそ(isso)」という日本語の音に対応してしますし、僕はこれでいきますと言いました。》
日本語は「余白」が素晴らしいと言われるけれど…
キャンベルさんも本の中で書いているように、「Just-so」には「丁寧で、慎重な態度」という意味合いもある。「いっそ」と「セレナーデ」の間にある余白を埋める単語としては、音も意味も適切なのかもしれない。
余白――。
キャンベルさんの英訳を読んでから、オリジナルの日本語を読むともう一つ違った顔が見えてくるように思える。「いっそ セレナーデ」もそうだ。主語が、迷っていた「We」ならどうだろう。別れを選んだ、あるいは選ばざるをえない2人で過去を語らい、よかった時を思い出しながら、いまにも涙を流そうとしている姿が思い浮かぶ。
「I」ならば、語り手が自分自身に「泣こうか」と自分に言い聞かせているようなニュアンスが出てくる。その時々の感情によって、IにもなればWeでも読めるような余白がある。
「正解、答えを出さずに読める」というところが日本語詞の魅力であるのかもしれないと私が話すと、キャンベルさんは、それはちょっと違うんだと応じる。
《「答えを出さない」というのと「答えがない」というのとはちょっと違う。答えを出さないのではなく、答えはあるんだけど、一つではないということなんです。
よく日本語は、ひとつの答えを出さなくてもいいように、すれ違いを避けるのに長けた言語だと言われますね。それが気持ちよくもあるけど、責任の所在がどこにあるのかわからないとも言われる。確かに日本語にはそういう一面もある。
でも、僕が言う「正解がない」というのは、答えを出さないということではないんです。答えは一人一人にある。そして、それは固定化されているものではなく、(一人の人の中でも)時間の流れの中で変わるかもしれない。一人一人が考えて、咀嚼して、噛み直していく、自分の中に打ち出していくことが大事なんです。
そのために考える素材があるということが大切なんですね。井上さんの詞は文学的な素材です。
日本語は余白が素晴らしい、で終わることが多い。だけど、僕は余白を作るというのは、覚悟が必要なことだと思う。余白というのは、人に埋めさせる(ことを求める)からです。
井上さんが作った余白に足を止めさせられた私たちは、余白を埋める勇気があるのかを問われます。自分の心の引き出しを開けて、余白に向き合わないといけない。井上さんの歌詞は余白を否応無く突きつけますよね。》
余白はどちらでもいい逃げ道ではない。詞の世界に入り込み、常に自分に問いかけ、余白を埋める言葉を探す。それを読解というのだろう。キャンベルさんの言葉から見えてくるのは、読解の心構えだ。単純な「日本語素晴らしい論」では、見えてこない言葉の世界がそこにある。
「ただ あなたにGood-bye」ににじむ”優しさ”
ニュース番組「筑紫哲也 NEWS23」のエンディングテーマになった「最後のニュース」という曲は、時代の変化のなかで、「今の社会」を批評する曲になっている。英語に置き換えるだけなら、簡単にできると思っていたキャンベルさんは、詞に仕掛けられたある言葉に驚くことになる。
この曲のなかで、井上陽水は「忘れられぬ人」が撃たれて悲しんだ後、人々は誰を忘れたのかと投げかける。この曲が発表されたのは1989年だが、問いは現代的だ。ニュースサイクルは早くなり、人々はSNSで怒り、悲しみ、共感を調達する。それがポジティブな行動につながるときもあれば、次から次に流れてくるニュースの反応にするだけになってしまうときもある。
そんな世界の中で、主人公は「今 あなたにGood-Night ただ あなたにGood-Bye」と繰り返す。
《僕は番組を見終わって、テレビを消して、そこにいる人におやすみなさいというイメージだったんですね。そこにいるパートナーや子供におやすみ、またねという感じだと思っていたんです。
ところが井上さんは、それは違うって言うんですね。いろんな人がいる中で、あなたにだけ「Good-Bye」ではない。今、あなたに言いたいことは本当はいろいろあるけれど、ただ「Good-Nightであり、その先にあるGood-Bye」なんだというんです。
とてつもなく微細な、だけどとてつもなく大事な違いですよね。僕はそこで「Simply, for you, goodbye.」と訳したんです。Simplyはgoodbyeにかかってくる。私たちが生きていく基盤、社会というものも破壊されつつあるかもしれない。いろいろなことがあるけれども、あなたにただGood-Byeと言う。そこに「いっそ セレナーデ」で言う“優しさ”があるんですね。
この感覚は非常に大切で、まさに「余白」なんですよね。井上さんの歌詞は、希望を持ちましょうよとストレートに歌うことはない。優しさも同じで、 ストレートに優しさを言葉にするのではなく、Good-Byeに込められているんですね。いろいろ起きたけど今日はおやすみなさいといい、一晩寝てまた起きて、生きていこうという意味が込められているように思います。》
「Simply, for you, goodbye」という英訳から「ただ あなたにGood-Bye」という元の歌詞を読んでみる。ここでのGood-Byeは、世界が終わりに向かい、もう会えないかもしれないと思って呟かれるものではない、とわかる。明日があるということを含意し、実はそこに少しばかりの希望も込めて1日の最後にGood- Byeと呟く語り手の姿がほのかに見えてくる。
《明日があるよ、という希望でありつつ、所詮それを言うことしか僕たちにはできないという意味もあると思います。僕たちはいま、ある種の全能感のなかで生きていますよね。SNSがあれば何でも知ることができる、何でもできると思うかもしれない。
でも、実際に何ができるのか。せいぜい、自分の近くにいる人にGood-Nightと言うくらいしかできないのではないか。投票をして、リーダーを選んだとしても今のアメリカのような状況がやってくるかもしれないのですから。
そんなリーダーの姿を反射板として、自分は何ができるのか。生きていて、何が残せるのか。そこに、この曲の「余白」がありますよね。この余白をどんな色で塗るのか。僕は明るい茜色やオレンジ色で塗り込まない。くすんだグレーがかかったピンクといった中間色になると思います。
僕たちはビビッドな色を求めているけど、実は微妙な中間色にこそ真実がある。それは曖昧ということではないですね。色があるんです。》
「優れた詞は未来に半歩、進んでいる」
SNS に目を向ければ、何かにつけ鮮明な色を求める人で溢れている。激しい意見を書き込み、何かやった気になったあとで、何を「忘れ去ってしまう」のだろう。そんな時代に自分は何ができるのだろうーー。そう問いかけてしまう。
《優れた言葉は読み返した時に、常に違う読み方ができますよね。僕は本を読む時、余白に書き込むんですが、今読んで、いいなと思うところと10年前に蛍光ペンを引いているところは全然違うんです。
それは井上さんの歌詞も同じです。「とまどうペリカン」という歌があります。
“あなたライオン たて髪ゆらし ほえるライオン おなかをすかせ あなたライオン 闇におびえて 私はとまどうペリカン”
ライオンとペリカンが出てくる寓話的な詞です。僕は最初はペリカンが女性的で、ライオンは男性っぽいと思って読んでいた。
でも、最近はペリカンが男性、ライオンは女性として読むと面白いのかなぁと思うようになったんです。そういう話をしたら、井上さんも「それに一票」と言うんですよね。そこで仰け反るくらい、驚いたけど嬉しくもあったんです。
井上さんのなかでも時を経て、歌詞の世界が変化しているんです。それが面白い。》
「優れた詞は未来に半歩、進んでいる」とキャンベルさんは言う。その意味では名曲「傘がない」も面白い詞だ。主人公は社会を騒がせるニュースを気にしながらも、雨が降る中で「傘がない」ことが自分にとって問題なのだと思う。
そして、家を出て恋人に会いに雨の中を走る。雨に濡れながら、「それは いい事だろ?」と問う。社会的なイシューより、目の前にある個人的な事を大切にする。この主人公は「今」を生きている。
雨の中、恋人のために町を駆け抜けるというのは確かに美しいのかもしれないが……。何か釈然としないものが残る。
《そうですよね。問われると、あれ、ちょっと待って?いいことなの「か」?となってしまうんですよね。この「か」が入って、考えてしまうことが大事なんです。僕のイメージでは狭いアパートの玄関先、扉をあける。その時、雨が降っているけど、一瞬、自分でもしらけてしまっている感じですよね。
彼女はもう待っているから、逢いに行かないといけないんだけど、本当にいい事なのかはわからない。そこに「Simply, for you, goodbye」と同じものを感じてしまいます。
「傘がない」の主人公もたくさんのことができるわけじゃない、その中で、何をするかを選んでいる。
井上さんの詞はシニカルでブラックユーモアで斜に構えているんだけど、シニカルの先に人を肯定する。たわいもないことを大切に生きる事を肯定しているように思えるんですよね。》
陽水の詞は一色で塗りつぶせない。ポジティブだけでもない、ネガティブだけでもない。どこか世間に対してシニカルではあるけれど、だからといって社会との関わりを避けているわけでもない。まさに「中間色」なのだ。
《井上さんの詞にあるのは「苦楽」なんです。楽しいことだけではなく、苦しいことともセットになっている。
英語には「苦楽」という言葉がありません。英語の「幸福=Happiness」は苦痛を消去したところにあるイメージ。でも日本的な幸福は苦と楽を行き来したり、苦と楽がメビウスの輪のようにつながっているものです。「最高だぜ」と思っている最中に痛みがでてくるかもしれない。だから備える、何かを大切にする、取っておく。
(陽水の詞の世界は)日本の長い経験や文化とつながっているように思えます。》
「傘がない」にならって、この記事も問いかけで締めてみよう。流れ続ける情報からちょっとだけ距離をとって、陽水が作った余白に自分の色をつける。日本語と英語を行ったり来たり、自分の心と詞の世界を往復してみたとき、そこに立ち上る景色はどんなものだろう?、と。
(文:石戸諭 @satoruishido / 撮影:坪池 順 @juntsuboike /編集:南 麻理江 @scmariesc)