自閉症的社会と神経症的社会(1)―私たちの社会はどのような人たちに取り巻かれているのか

自閉症的ないし神経症的であることが彼らの存在意義そのものになっている。

海外のとある銀行にて。

「次の方、どうぞ」

「すみません。ちょっとお尋ねしたいのですが、宜しいですか?」

「はい、どうぞ」

「(顧客が銀行から届けられたキャッシュカードとそれに対する書面を携えながら、丁寧に話し出す)実は前回、こちらでキャッシュカードを作ったのですが、名義が違っていたので直したいのですが...」

「(対応する従業員は、しかめっ面をしながら、顧客が取り出した書面に軽く目を通す。そして、彼女は顧客が何を要求しているのかを確認しているような趣きで、顧客の顔をメランコリックな眼差しで見つめる)」

「(すると、大学から本人宛の氏名が印字された書類を手に、顧客が再び喋り出す)こちらのカードの名義は、〇〇〇(名) Dr. 〇〇〇(氏)の順番で刻印されているのですが、実はこれは、完全に間違ったDr.の使い方なんです。このカードには、Dr.の文字が名字と名前の間に印字されているんですね。これを見て下さい。例えば、これは大学から私宛に送られてきた書類ですが、Dr.の文字が氏名の前に印字されています」

「(顧客の真っ当な主張にもかかわらず、顧客の言っていることがまるで間違っているかのように、従業員が突如声を荒げて喋り出す)それは、直さなければいけないほどじゃないですよ。特にそんなに心配するような問題ではないです。ですので、直すことはできません」

「(顧客はびっくりした様子で)なんでですか?」

「(従業員は、再びしかめっ面をしつつ、非常にメランコリックな表情で素っ気なく応答する)一度カードを作ったら、再発行できません」

「(そこで、顧客はカード再発行要求のための正当な主張を持ち出す)Dr.の使い方ですが、名字のみでDr.を使うときは名字の前にDr.の文字を使うのですが、氏名で用いるときはDr.は氏名の前に置かなければならないんです。ですので、氏名の間にDr.が使われているのは完全に間違っているので、直さなければならないんです。お願いできませんか?」

「(再び従業員が喋り出す)だから、それは直さなければいけないほどではありません!ですので、できません!」

「(顧客は、非常に重々しい雰囲気になりつつも、理解を示さないこの従業員の態度を改めるために仕方なく大学の事情を持ち出し、より強い調子で話し出す)大学からは、フルネームでDr.を使う場合、氏名の前に使うように指導されています。ですので、このカードに印字された名前は注意の対象になり得るということで、銀行側はこの正当な理由をもってこれを直さなければなりません。お願いします」

「(予想外の事態と彼女にとってはうるさい顧客にうんざりした様子で、受話器を持ち、上司かと思われる人間に内線を繋ぐ)顧客〇〇〇 Dr. 〇〇〇が今こちらに訪れているのですが、彼はわれわれの銀行が発行したキャッシュカードに印字された名前が間違っていると主張しています。カードにおいて、大学から授与されたDr.の使い方に問題があるということなのですが、再発行してもよろしいでしょうか?......わかりました(心なしにもうなずいた様子で受話器を置く。そして話し出す)それでは、再発行致します。約一週間後に暗証番号を書面で通知し、約10日後にカードをお送り致します」

「(顧客は、ホッとした心境から)それでは、この件でこちらにはもう戻ってこなくてよろしいんですね?」

「(従業員)大丈夫です」

「(顧客は、ホッとした心境にも、さらに気がかりなことを尋ねる)こちらのすでに頂いたカードはどうしたらよろしいですか?」

「(従業員はジェスチャーを交えながら)ハサミで切って捨ててください!」

「(顧客は嬉しそうに)どうもありがとうございました!」

「どういたしまして!」

異文化コミュニケーションのような上のやり取りから一体何を想像するでしょうか?

ビジネス社会的な視点から見れば、おそらく日本人一般の感覚からすると、上の従業員の態度は信じがたいほど不親切であり、無礼かつ冷徹であって、こういう従業員はすぐに態度を改めるか解雇されるべきだという印象を与えると思います。

けれども、私がここで問題にしたいのはそういうことではありません。

実は、上のコミュニケーションには、本稿が意図している「自閉症的人間」および「神経症的人間」の性格が典型的に表現されています。

精神医学的には、「自閉症autism」および「神経症neurosis」は、精神疾患を意味します。けれども、本稿が題材にする議論は、それらの精神疾患を直接意味しているわけではありません。

むしろそれは、自閉症的なあるいは神経症的な人間といったレベルの話であって、日常生活では明確に意識されることが少なく非常に見過ごされやすい「個人の性格individual character」を意味しています。

端的に言えば、本稿で使われる「自閉症的人間」とは、単調な作業を繰り返すことを得意とする一方、他人への気づかいや気配りに欠け、予想外の出来事や社会的な視点から見て外れた事柄に対する許容度が著しく低い人の生活様式および性格を意味します。この典型が、ドイツ人です。

なお、「神経症的人間」とは、語義通り、ノイローゼ的に細かなことが気になり、臨機応変に対応できるものの、極端にあれこれと他人から自分への対応および自分の他人への対応の仕方に執着する人の生活様式と性格とを意味します。この典型は、私たち日本人です。

実は、上のような二つの対照的に見える性格構造のうちどちらか一方に分類される型によって生活している人は、私たちの社会には山のように存在しています。

つまり、彼らは、確かに「自閉症」や「神経症」というほどではありませんが、自閉症的ないし神経症的であるといってよいかと思います。

この点は特に重要なのですが、むしろ彼らは、自閉症的にあるいは神経症的に振舞うことによって社会生活を送っています

すなわち、自閉症的ないし神経症的であることが彼らの存在意義そのものになっているのです。

ですので、特に自閉症的なあるいは神経症的な彼らがどのように社会と関わりあっているのか、また、彼らのどういう部分が社会との関りを隔てているのかということが、彼らの存在を決定づけているといってよいのです。

本稿で問題となるのは、このような二種類の性格が社会でどのように機能しているのかということです。

中でも、特に、これら二種類の人間は、社会でどのように受け入れられ且つ敬遠されているのか、そしてまた、社会でどのような役割を担っているのかということを考えるのが本稿の主題となります。

これら二点の問題を考察する上で、重要なキーポイントになるのが「社会の性格social character」という概念です。

本稿では、これを使って、上に挙げた二つの個人の性格が社会の性格とどのように関わっているのか、また、これらは社会とどのようにシンクロナイズするのかということを考察することを目的としています。

なお、特にこの二点を考えることよって、私たちは、社会的存在を越えた意味で、人間としてどうあるべきかという問題を考察していこうというのが本稿の狙いです。

それでは、次回の連載以降、まずは自閉症および神経症という概念の移り変わりを簡単に確認し、それらが社会においてどのような意味を持っているのかを考えてみたいと思います。

第二に、自閉症的人間と神経症的人間とは、一体どのようなものであるのか、また、社会的にどのような意味を持っているのかを考えていきます。

第三に、これら二つの性格類型を背景とした社会的役割とその役割意識とが社会とどのように結びついているのかを深く考察していきます。

そして最後に、ここまでの考察を基に、それら二つの社会的人間類型を超えて人間とはいかにあるべきかという問いに、本稿で言える範囲で答えたいと思います。

(次回に続く)

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